戦端が開かれた。
漢軍は匈奴の陣を取り囲み、一斉に攻撃を開始した。それが、漢軍と匈奴との初めての本格的な戦闘となった。匈奴の兵のほとんどが馬に乗り、漢軍に矢を放った。しかし、漢軍が歩兵で攻め立てると、匈奴は一騎、二騎と戦線を離脱し始め、やがて総崩れとなり雲散霧消した。
やはり野盗の群れなのだ。漢の将兵達は嘲った。この戦いにより、将兵達の匈奴に対する恐怖心は消え去った。
まるで、彭城の戦の折りの我が軍のようだな。高祖は苦笑した。あの時、項羽は漢の主力を精鋭3万で叩き、56万の軍勢を、まさに蜘蛛の子を散らすように蹴散らした。あれほどあっけなく破れたのは、漢軍が群雄の集まりで忠誠心というものがなかったからだ。蛮族も同じなのだろう。いや、禽獣の心しか持っていないような輩であれば、目先の利にしか動く事はあるまい。
雪が降り始めた。関中よりも1月は早いだろうか。高祖は晋陽に入城し、匈奴へ使者を派遣した。使者の報告に高祖はじめ諸将は色めき立った。かの匈奴の王が白登山の近く上谷に陣取っているというのである。
「諸将は、いかがするべきと考えるか。」高祖は尋ねた。しかし、九分通り彼の心は決まっていた。
「討つべきです。」将軍達も答える。
「匈奴は烏合の衆に過ぎません。」晋陽での戦いが、彼らの自信となっていた。
「匈奴の兵も馬も、漢に比べて劣っております。臣、思いますに、彼らは北方の不毛の地に住んでおりますため、馬を太らせる飼い葉もなく、飢えで弓を引く力もないようです。」
その言葉に、どっと笑い声が起きる。
「では、討つとしよう。否か応か。」
「応!」という叫び声の中、「否!」と言う声がする。劉敬という将軍だった。座は水を打ったように静まりかえった。
「陛下、お考え直し下さい。」劉敬が言葉を続けた。
「何を言うか。」高祖の顔に明らかに不快の念がにじみ出ている。しかし、彼はこう付け加えた。「理由を申してみよ。」
「陛下、おかしいとは思いませんか。我々は勝ちすぎております。」
「それは匈奴が怯だからだ。」別の将があざ笑った。劉敬はその男をにらみつけると話し始めた。
「戦というものは、お互い最強の軍を用いるはずです。それなのに匈奴には弱兵しか居ない。これはおかしい。何か策を弄しているに違いありません。我々はとどまって、趨勢を見極めるべきです。」
「劉敬、そなた命が惜しくてそのような世迷い言を申すか。」諸将は激怒してる。
「陛下、今一度お考え直し下さい。この寒さの中では、」
皆まで言わさず、高祖が口を開いた。
「小僧、これ以上くだらねぇ事を抜かすと、舌ぁ引き抜くぞ。」
激高のあまり、すっかり遊侠時代に戻っている。高祖はなおも懇願する劉敬を牢に放り込ませた。
「何がおかしい。」陳平の顔を見ながら、高祖は尋ねている。
「陛下らしいと思っただけでございます。」陳平はすましている。
「どうせ、儂は流賊上がりだよ。」
「そうではありません。劉敬を処刑しなかったではありませんか。そこが陛下らしいと思ったのです。」
諫言した部下を処刑する君主の多い中、高祖だけはそれを行わない。
30万の軍勢は北に向かっている。
出立してまもなく雨が降り始め、やがて雪に変わった。
濡れた服は、兵の体をしんから凍えさせた。寒さのあまり手足の指が紫色に腫れ上がり、やがてどす黒く腐った。行軍の間に手の指を落とすものが十人のうち二三人にも上ったという。しかしまだ、本格的な冬ではない。足を引きずり行軍から離脱する者もいる。そうなった者の運命は、野盗の餌食でしかない。
途中、やはり匈奴が待ち伏せていた。
戦いが始まると、彼らはさっさと逃げ出した。高祖が率いる精鋭部隊を先頭に、漢軍は降りしきる雪の中、匈奴を追撃し、北へ北へと向かった。目指すは平城である。
しかし、漢軍30万余のうちわけは殆ど歩兵であった。対する匈奴は騎兵である。敵は逃げ足だけは早かった。その敵を追いかけるうちに、兵站が伸び始めた。漢軍は長く細い糸のように街道に散らばった。
高祖の部隊が平城についたとき、主力部隊はまだ、平城の遥か後方にあった。本来ならば、ここで主力の到着を待って、上谷に向かうのが常道であろう。
しかし、事態は急変した。密偵からの情報では、上谷に陣取っていたはずの匈奴の王が、白登山の麓に露営しているというのである。連戦連敗する自軍を叱咤するために来ているのだろう。
匈奴を壊滅する機会が巡ってきたのだ。敵は自ら、機会を提供しているのだ。この機を逃す事はない。すぐに出陣が平城の将兵に告げられた。
「やめるべきです。」
さすがに陳平が進言した。
「兵は疲れています。主力も着いていません。陣容を整えてから進軍すべきです。」
当然の策である。しかし、高祖は珍しく反対した。ぐずぐずしていれば、匈奴はまた逃げてしまう。今、匈奴の王を叩いておかなければ、流賊の群れはいつまでも略奪を繰り返すだろう。何のために、ここまでやってきたのか。それに、匈奴は烏合の衆に過ぎない。馬術や騎射が巧みだからといって、何を畏れる事があるというのか。
とうとう陳平も押し切られた。
「くれぐれも深追いなさいませんように。」そう付け加えるのが精一杯だった。
なぜ、策士といわれた陳平が、高祖の無謀とも思える追撃を許したのかは分からない。
彼は、軍師といっても作戦司令官ではなく、謀略を得意とする外交官であったからかも知れない。また、確かに高祖の言うとおりで、密偵からの情報を照らし合わせても、匈奴の騎兵は寡少で訓練されてもおらず、精鋭部隊のみで十分といえば十分である。それよりも、時機を逸して匈奴の王を逃がす害の方が大きいように思われた。
次の日は霧が深かった。匈奴に気づかれずに行動するにはもってこいである。漢の将兵は匈奴の陣地を取り囲んだ。匈奴の王が居るだけあって、今回の騎兵達はなかなか退却しなかった。しかし、二刻も経ったころには敗走し始め、総崩れとなった。
「王が居てあの程度か。」高祖はむしろ拍子抜けしている。
伝令が匈奴の王であろう騎兵を指さした。他の騎兵よりは良馬にのっているのだが、甲冑も漢の将に比べ、明らかにみすぼらしかった。
「あの騎兵を追うぞ。続け。」銅鑼が鳴り響き、高祖の軍は追撃を始めた。
敵は白登山の麓まで逃げていく。白登山の上り坂は、馬にはきついはずである。前に白登山、後ろには漢の軍、匈奴の王を捕縛できる時が迫ったのである。高祖が勝利を確信した瞬間であった。
その時、聞き慣れぬ高い音がした。
耳障りなその音はしばらく聞こえ、やがて消えていった。
「あれは何だ。」
「鳴鏑の音でございましょう。陛下。匈奴はあれをよく使うと聞いております。」ようやく高祖に追いついた陳平が、答えた。
二人の耳に、左右から蹄の音が聞こえてきた。その音は幾重にも聞こえ、やがて地を揺るがすような響きとなった。
二人が事態を把握するのと、ほぼ同時に、霧の中より何万という馬が現れた。馬の背には、全て匈奴の兵が乗っている。次の瞬間、左右から万雷の矢が打ち込まれた。
「白登山に上れ。」今や、総崩れとなったのは、高祖の軍の方である。
劉敬の懸念したとおりになった。いや、それ以上であろう。ともかく要害の白登山で主力部隊が来るの待つしかないのだ。
抜かったわ。
陳平は歯がみをした。諜報によって敵の動向を把握したつもりになっていたが、逆に敵に踊らされていたとは。匈奴はわざと我々に偽の情報をつかませたに違いない。
混乱の中、我先に兵達が白登山に上っていく、その背に情け容赦なく矢が打ち込まれた。このままでは白登山に逃げ込む前に、全員討ち死にしかねない。
その匈奴の軍馬の集団から、飛び出してきたものがいる。
漆黒の駿馬にまたがい、見事な金色の甲冑を身にまとった騎馬武者であった。匈奴の将達の中でも、かなりな身分のものであろう。その騎馬武者は、まっすぐに高祖の馬車に向かってきた。天馬が居るとすれば、あれではないか言うほどの速さである。
騅か。一瞬高祖はそう思い、その馬に乗った男のことを思い出した。
騎馬武者は見る間に漢軍に迫り、高祖にもその容貌がはっきりと認められる。漢の将ならばまだ若輩といった年令であろう。痩身で、浅黒く彫りの深い顔立ちの騎士である。しかし、高祖は、その匈奴の目しか見ていない。琥珀色の、さながら、虎や狼のごとき眼光に高祖は慄然とした。その匈奴の騎兵は、漢の皇帝と目を合わせた刹那、片頬に薄笑いを浮かべると馬を反転させた。
「放て。」
護衛の将が、命令する声が、高祖の耳に聞こえてくる。匈奴の騎兵は、後ろを振り向きざま矢をつがえ、弓を引き絞った。
その騎兵の放った矢は狙い違わず、護衛の将の心臓を射抜いたのである。鬼神もかくやと思う技であった。
漢の精鋭部隊は、白登山にようやく逃げ込んだ。
兵達は地面に座り込んでいる。しかし、休んでいる間はないのだ。すぐさま、伝令をつかわさねばならない。
北西の風が吹き始めた。身を凍えさせるような寒風である。兵達は歯の根も合わないほど震えていた。風は麓にたちこめていた霧を吹き払った。
「あれを見ろ!」兵の悲鳴が聞こえてきた。その声につられるように、諸将もみおろした。
白登山が、何十万という騎馬に取り囲まれている。これほどの騎馬隊を誰が想像できたであろうか。
見ると、東は全て額の白い黒馬、西は白馬、南は赤黄色の馬、北は黒馬で統一されている。どれも見事な駿馬である。四方を取り囲む騎兵達は、鳴鏑の合図に従い、整列散開を繰り返し、鬨の声をあげた。これもまた、見事に訓練された騎兵ばかりである。これでは、伝令どころか、文字通り、アリのはい出る隙もない。
白登山に虜にされた者達は皆悟った。
あの緒戦での勝利も、群盗のごとき退却も、全ては、ここに誘い込むための罠であったのだ。蛮族と侮ったのが、そもそもの間違いであった。いや、匈奴はその侮りさえも逆手にとったに違いない。
波のうねりのように、鬨の声がこだまする。もはや将兵達のふるえは寒さばかりではない事は明らかだ。
急に鬨の声がやみ、静寂が支配した。
匈奴の騎兵達は列を整えている。漢の陣の真正面に位置する騎馬軍団がさっと左右に分かれ対面した。あたかも一筋の新しい道ができたようである。人馬共々音もなく整列する姿に、漢の将兵は得体の知れぬ不安に捕らわれた。
一斉に匈奴の騎兵は馬上のまま深々と黙礼した。さざ波が立つようにそれは、白登山を包囲する全軍に広がっていく。
何事かが起ころうとしている。漢の将兵は肌が泡立つような恐怖を覚えた。
その一筋の道から蹄の音が聞こえてくる。
やがて白登山に籠城した者達の眼前に、一騎の騎馬武者の姿が現れた。金色の甲冑を身につけ黒い駿馬にまたがった、あの虎狼の双眸の騎士である。騎士はその騎馬軍団の先頭に立ち、右手を掲げた。
白登山を揺るがすばかりの鬨の声が沸き起こる。
あやつが匈奴の王か。あやつがか。
高祖は心臓をわしづかみにされるほどの恐怖に襲われた。
北風はますます強く白登山から吹き下ろしてくる。要害の地とは言っても、むき出しの岩肌には、薪となるような一木もないのだ。いや、それどころか、兵糧さえもない。この寒気では、兵の命は一週間と持つまい。
高祖の生涯における最大の危機が訪れようとしていた。
人物紹介
劉敬・・斉の人、劉邦に長安を都とすることを最初に進言
その功によって劉姓を賜る
史実の彼は使者にたち、匈奴の様子がおかしいことを高祖に伝えている。
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