午前7時、突如、ラジオから臨時放送のチャイムが流れた。はっとした人々の耳にアナウンサーの第一声が飛び込んできた。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表。帝國陸海軍部隊は、本八日未明、西太平洋に置いて、米、英軍と戦闘状態に入れり・・」
真珠湾奇襲攻撃を告げる放送であった。
ついに来たのか・・・不安と期待におののきながら、戦況報告を待っていた国民に対し、「撃沈7隻、損傷10隻、陸海軍機231破壊」という戦果が発表された。思いもかけぬ、一方的な大勝利であった。
国民の戦勝気分はいやが上にも高まることになる。
国中が浮かれる中、2つの失策が伏せられた。1つは、攻撃の第一目標であった米空母艦隊の殆どは、太平洋上にあり、無傷のまま残されたこと。第2は、外交官のミスにより、アメリカに宣戦布告を行わないままの奇襲攻撃になったことであった。この第2のミスこそ、この大戦の戦況を決定する致命的な失策であった。
宣戦布告無しの奇襲攻撃に、「だまし討ち」であると認識したアメリカの世論は一気に開戦へと梶を切る。アメリカ人はunfairであることを最も嫌う。第34代大統領F.ルーズベルトはその日、こう演説した。
「・・昨日は屈辱の日として長く記憶されるべきでしょう。合衆国は、日本帝国により突如、計画的に襲撃されたのであります・・」
Remember Pearl Harbor!
このスローガンのもと、アメリカは一致団結した。GNP第1位の強国アメリカが、民主主義の誇りをかけて参戦したのである。ここに、アメリカの戦意を喪失させ、早期の和平交渉に導くという聯合艦隊司令長官山本五十六のもくろみは完全にはずれる事となる。
アメリカの国力と科学技術の粋を結集して、壊滅させられた太平洋艦隊の補充が急ピッチで行われた。
快調な進撃を続けていた聯合艦隊だったが、翌年のミッドウェー海戦において空母4隻を撃沈され、ここに多くの優秀な操縦士を失った。この海戦を機に、戦局は大きくアメリカに有利に傾くようになる。
しかし、国民は誰も、その事実を知らない・・・
その日、一人の兵士の出征祝いが開かれていた。網元の家で、質素ながら人々が精一杯の心を込めた
「中村五助君、万歳。」「お国のために頑張ってきて下さいよ。」
酒をつぎながら、村の女達が、五助と呼ばれた若者に声をかけた。若者は、ほおを赤く染めながら杯を受けている。日焼けした引き締まった体とは対照的に、顔にはまだ幼さの残る、気だての優しそうな青年だった。
「ついに兄ちゃんも、水兵さんかぁ。」六、七才ぐらいの子供が物珍しげに青年の軍服に手をかけようとした。
「これ、大事な服に、青っぱななんかつけるでねぇ。」五助が慌てて弟の手を払う。
「つけねぇよ。」子供が大きな音で鼻をかむと、どっと人々は笑った。
「こんな
「なぁに、大丈夫だぁ。なにしろ、一平がおるからな、海軍には。」
一平、五助より十は上のその男は海軍に志願し、兵役期間を過ぎても軍に留まり、職業軍人の道を歩んでいた。
「でもよう、沢山軍艦があるんじゃろ。一平さんと同じ軍艦に乗れるかどうかわからんじゃないか。」五助が心配そうに聞いた。
「肝っ玉の小せい奴じゃ。図体ばかりでかくなりやがって、甲種合格が泣いとるぞ。これからアメリカさんとドンパチやらかさにゃあならんてえのに。」と、漁師仲間の青年が五助の背中をどやしつけた。
「満期除隊の暁にゃ、お前も村の名士様だな。いや、もしかしたら・・」酒を仰いだ村人の後をついて、別の漁師が話を続けた。
「一平みたいに、末は海軍大将様かも知れんで・・」酔いも手伝って、人々は饒舌になっている。
「んなことあるもんか。」網元が呆れたように説明した。「一平がいくら賢かったとしても所詮、特務士官じゃろ。せいぜい、大尉止まりじゃ。陸軍さんと同じでのぅ、海軍さんも江田島あがりじゃないと、大将様には慣れんのじゃ。」
「でも、特務士官様だって大したもんなんじゃろ。」五助が口をとがらせた。
「もちろんだとも、ああ、一平は大したもんじゃ。村一番の出世頭じゃ。」網元は大きくうなずいた。
「もし、会えるとすると、十年ぶりかぁ。」五助は懐かしそうにつぶやいた。
「お前、ガキの頃から一平兄ちゃん、兄ちゃんって後をくっついてたからなぁ。」仲間の青年にからかわれて、五助はほろ酔い加減の顔をいっそう赤くした。
宴の後、五助は男達に引っ張り出された。男達はにやにやしながら、話しかけた。
「五助よ。お前も明日からはお国のために命を貼る定めだ。そうだな?」
五助は不審そうに頷いた。
「そのためにゃあ。娑婆に未練があっちゃなんめえ?」
「それは、そうだけど」
「そのために、男にならなきゃなんめえ。え、五助よ。」
「男?」
「にっぶい奴だなぁ。それ、俺たちの餞別代わりだ。敵を撃沈して、立派な男になってこい。突撃一番を忘れるな。」男達は金を握らすと五助を娼館に放り込んだ。
「では、中村五助二等水兵殿、立派な戦果を期待しております。」五助を置き去りにして、仲間達は意気揚々と帰っていった。
次の日、五助の見送りが行われた。のぼりを立て、総出で万歳三唱を行う。勇ましくももの悲しい光景だ。不安げに見つめる母親に五助は大丈夫だよと言うかのように大きくうなずいた。
海軍の新兵はまず、海兵団に送られる。五助は横須賀海兵団に入隊した。ここで新兵達に4ヶ月間の訓練が施される。兵士として最低限のことができるよう、徹底的に訓練されるのだ。一五・六人の班に分けられ、朝五時の起床から午後九時の就寝まで、教班長と呼ばれる兵曹(下士官)の命令に、絶対服従の日々が始まった。まずは、水練からである。泳げなければ、海軍としては失格である。ゆえに、泳げるまで海に放り込まれ、遠泳ができるようにさせられる。次に陸戦訓練、海軍には陸戦隊という野戦部隊もあるため行軍や銃の扱い方など、陸軍と同じ訓練がなされた。手旗信号、幾つもの型を覚えるまで何回も繰り返させられる。結束、これはロープの結び方の訓練。カッター教練。さらに座学で、修身・軍事学・算術を勉強させられる。最後に甲板掃除、これが、海兵団の訓練の全てである。
海軍の伝統は、迅速・確実をモットーとしたため、新兵達は起床時のハンモックの収納から始まって全てのことを五分で終わらせることを要求された。しかし、厳しい訓練の中にも楽しみがある。特に、海兵団での三度の食事は、娑婆のそれよりも遙かに贅沢で、カレー、ハンバーグなど洋食と呼ばれるハイカラなメニューも出されるため、五助達にとっては数少ない楽しみの一つであった。
漁師の五助にとって、朝の起床や遠泳などはなんでもなかったが、カッターや甲板掃除はさすがに堪えた。中腰でぞうきんがけを何時間も行うため、腰が痛くてたまらない。しかし、不平不満を顔に出すわけにもいかない。陸軍の鉄拳制裁は有名であったが、ここ海軍でも同様で、少しでも要領の悪い兵士は教班長の制裁をうけるのだ。
海軍の制裁は、鉄拳制裁に加え、通称ケツバット、即ち、精神統一棒というバットで尻をひっぱたくものもあった。五助の班でも尻が痛くてうつぶせでなければ寝られないという新兵が続出した。また、手紙は全て検閲されるため、恋文が送られてくると、班全員の前で読ませられるという罰直(制裁)も行われた。肝心なところになると恥かしさで声が小さくなるため、教班長の「声が小さい」「もっとゆっくり読まんか」の声の元、何回でも朗読させられる。顔を真っ赤にし涙目になって朗読する当人は気の毒なのだが、五助のように付け文一つもらったことのない人間にとっては、逆にうらやましく思えるのだから不思議である。
そうこうするうち、悪夢のカッター教練が始まった。カッター(救助艇)を操るのは海軍の基本であったため、特に訓練は念入りに行われるのだった。手のマメが破れるほど櫓を漕がされただけでなく、他班のカッターと競争が行われた。負ければ当然、制裁の上、夕食抜きの罰が与えられた。
今日も、教班長は、五助達にケツバットを一発ずつ見舞わせた後、にべもなく言い放った。「夕食を抜きとする。以上。」
「畜生。」殆ど唯一の楽しみである食事を抜かれ、尻をさすりながら五助はつぶやく。激しい訓練の後の断食は、若い新兵達の胃には堪えた。翌朝には空腹で目が回りそうになる。しかし、起床時の整列で少しでも振らつこうものなら、教班長に、それこそ顔の形が変わるほど殴られた。
「そんな精神で、艦隊勤務がつとまると思っているのか!」教班長の罵声が浴びせられる。
冷静に考えると、夕食を抜けば体力が低下し、次の競争に勝てるとは到底思えないのだが、食い物の恨みというものは恐ろしいもので、皆、必死の形相でカッターを漕ぎ、次の戦いには見事、雪辱をはらすのだった。いわば、班長の作戦勝ちである。なお、負けた班の新兵達が、五助達と同じ目に遭わされたのは言うまでもない。
厳しい訓練もついに終了した。五助達二等兵は晴れて海軍一等兵となる。五助は、第一艦隊、第三戦隊の戦艦「厳島」に配属された。
聯合艦隊の主力である第一艦隊に配属され、五助の心は高揚している。とでも書けば良いのだろうが、実際の五助の心は晴れなかった。まだ、陸戦部隊の方がましだ。五助は考えている。
海兵団での制裁は厳しかったが、艦隊勤務でのそれは想像を絶するものであるという。彼らの詩に「鬼の山城、地獄の金剛、音に聞こえた蛇の長門」とまで詠まれたぐらいであるから、戦艦内のケツバット制裁は陰惨さを極めた。ケツバットの傷が元で命を落としたり、制裁に耐えかねて入水した水兵は一人や二人に留まらないと言ううわさであった。
同じ戦艦なら、厳島だって、似たり寄ったりのはずだ。グラマンと差し違えるのは・・・
五助は思う。
本望というものだが・・・ケツバットで殺されるのだけは真っ平御免だ。
横須賀軍港に戦艦「厳島」は停泊している。逆光の中、黒々とそびえるその姿は、一般人には頼もしい国の守りに見えるのだろうが、五助の目には、それが鬼ヶ島のようにも、また地獄門のようにも見えるのであった。いや、それどころか、乗艦している下士官や将校の姿が、皆、角を生やした鬼のようにさえ見えてくる。
五助は慌てて首を振った。
折しも、一隻のカッターが桟橋に到着し、一人の海軍将校が短艇から降り立つのが見えた。短剣を腰に差し、白地の第二種軍装も凛々しい三〇代前半のその士官は、颯爽と五助の方に向かって歩いてくる。背筋をまっすぐに伸ばし、きびきびとした動作が美しい。肩章から、海軍特務中尉であることは明らかだ。
あの若さで、五助は感心している。特務士官という海軍特有のたたき上げ将校になるには、通常、二〇年近い年月がかかることを、五助は海兵団で教わっていた。
日焼けした士官の顔立ちが次第にはっきりとしてきた。面長で鼻筋の通った一見、穏やかそうではあるが目に光のある男である。五助は驚いてその士官の顔を見つめた。
一平さん。
何とまあ、立派になられて。五助はそう叫ぼうとした。しかし、体の反応は違った。
五助はその特務中尉にさっと敬礼をすると、こう付け加えた。
「吉崎特務中尉、お久しゅうございます。中村五助一等水兵であります。」
要するに、社会のどこへ行っても、人の命の安かった時代であったのだ。
小舟にしか乗ったことの無かった五助にとって、大型船に乗るのは初めてである。「厳島」は戦艦・金剛の姉妹艦として大正五年に竣工された。全長210m、36cm砲8門・15cm砲14門・12cm高角砲8門・25mm機銃20門を装備し、大和・武蔵など最新鋭戦艦に対し兵装ではやや劣るも、速力30ノットと当時の戦艦の中では最速を誇っていた。
戦艦の最上甲板を地階に例えると、乗員の居住区は地下一階に当たる上甲板、中甲板(地下二階)、下甲板、最下甲板に設けられている。それより下部は、船倉であり火薬、燃料などが備蓄されていた。特務士官や士官にはそれぞれ、上甲板の士官室があてがわれていたが、五助達兵士は中甲板以降の兵員室で海兵団と同様、ハンモックで寝起きする日々である。
五助は、同じ分隊の二人とすぐに仲良くなった。砂知川良一という音楽学校出の二六・七の、いかにも芸術家タイプの青年と、五助とほぼ同い年で東京工業大学を中退した金田正という青年である。二人とも本来なら、漁師の五助が口をきける種類の人間ではないのだが、そこは軍隊である、同じ釜の飯を食った兵士達は皆仲間であった。
今日も、休憩時間に第一主砲砲塔に腰を下ろしながら、三人は話をしている。
「いつになったら、出航できるのかな。」通常勤務に飽き飽きした五助がつぶやいた。
「出撃するときは、戦闘に参加するときだろう。命がなくなるかも知れないじゃないか。」砂知川一等水兵が悠然と答える。色白の柔和な顔立ちに、育ちの良さがにじみ出ている。どことなく浮世離れしたところのある青年だった。
「でも、ケツバットからは解放されるぜ。」金田一等水兵は言った。こちらは四角く顎の張った顔立ちに意志の強い眉と目を持っていた。彼は朝鮮系のためか、あるいは生来の気の強さのためか、上等水兵から目の敵にされているのだ。
「砂知川さんは、音楽学校で何を勉強されてたんですか?」年上の砂知川に対しては、五助はどうしても敬語を使ってしまう。
「作曲さ。自分の曲を作りたいんだ。みんなが気楽に歌えて、楽しい曲が良いな。」戦時下では許されるはずもない曲想である。砂知川はさらに続けた。
「はやく戦争が終わらないかなぁ。そうすれば好きな曲が作れるのに。」その言葉に五助は慌てた。
「滅多なこと、口にするもんじゃないよ。砂知川さん。」
「誰もいないぜ。心配性だなぁ。」周りを見回しながら金田がささやいた。「だけど、誰が聞いてるか解らないからな。」金田の目に微かに怒りが見えた。
五助や砂知川とは異なり、金田は自分のことを殆ど話さなかった。金田がどういう人生を送ってきたかは、五助達には解らなかった。しかし、彼の目に時折見られる暗い怒りから、二人はこの青年が受けた差別を感じずにはいられない。もし、東工大に在学していたら、彼は砂知川の年まで徴兵されずにすんだはずだった。いや、理工系の学生であるから、さらに兵役は免除されていったに違いない。
夕食後、自由時間に兵員室でくつろいでいた三人に、特務士官室に来るようにとの伝言がもたらされた。一平こと、吉崎特務中尉からであった。
「特務中尉から、直々になんて、どういう事だ。」金田は不審そうだ。
「中村君は、知り合いなんだろう?あの特務中尉と。」
「それで呼ばれたのかなぁ。」
「それなら、中村だけ呼ぶはずだ。何で俺たちまで?」
上甲板の士官室は、兵員室とは異なり、個室である。
「うらやましいなぁ。」砂知川がつぶやいた。良いとこのぼんぼんだったんだな。この人。五助は考える。きっと、
扉をノックし、それぞれが氏名を名乗った後、入室を許可された。中は、さすがに広く、ベッドまで用意されている。机があり、脇の本棚には難しそうな専門書がずらりと並んでいた。
「ご苦労だった。三人とも。」吉崎特務中尉が三人をねぎらった。威圧的ではないのだが、一種近寄りがたい雰囲気がある。村にいた頃とは別人だな。五助はそう思った。
「あの・・・」砂知川が口ごもった。気がつくと金田は夢中で専門書を眺めている。
「金田一等水兵。」一平が声をかけた。
「はっ。」金田は慌てて敬礼した。
「お前は、東工大を中退したそうだな。」
「はい。」
「もし、工科の勉学を続けたいのなら、お前に、ここの専門書を貸し出したいのだが。」思いがけない言葉だった。
「よろしいのですか?」金田の顔が明るくなった。
良かったなぁ。金田さん」兵員室で五助が話しかける。
「ああ、初めて海軍も悪くないって思えたよ。」早速、借りてきた専門書を読みながら、金田は答えた。
「砂知川さんも何か借りれば良かったのに。」
「借りたくても、吉崎特務中尉の本は、理系の専門書ばかりだったからな。中村君こそ借りれば良かったのに。」
「いや、俺、全然ダメだぁ。あんな本読んだら頭が痛くなる。」
やっぱり、さすが一平さんだ。五助は得意げである。
士官達が、短期間で配置転換させられるのと異なり、下士官や特務士官は一つの艦に長く勤務している。艦のことならどんなことでも、彼らに聞けばたちどころに解るのだった。五助達若い兵士にとって、特務士官は憧れの的であった。その特務中尉に目をかけられている兵士がいるという噂が広まり、五助達の分隊では、制裁が殆ど行われなくなった。
ある日のことである。艦長の小西大佐以下、士官達が皆上陸することとなった。小西大佐は、吉崎特務中尉に後を頼んで上陸した。夜の見回りを始めようとしたとき、特務中尉にくってかかったものがいる。小田という兵学校出たての少尉である。五助とほぼ同年配のこの少尉は、兵や下士官に対し、平素からあからさまに侮蔑的な態度を取っていた。その若僧が、一平にくってかかっているのだ。五助は、怒りで我を忘れそうであった。娑婆であれば、この生意気な若僧に一発お見舞いするところである。艦長が特務士官に夜の見回りを頼んだことがよほど気に入らないのだろう。かといって、兵学校出たての少尉にまともな見回りなどできるはずもないのである。少尉はしばらくねちねちと、特務中尉に嫌みを言った後、士官室に戻っていった。五助達はその若僧を憎んだ。
「ふん、江田島上がりを鼻にかけやがって。」金田が吐き捨てるように言った。
「中身のない奴に限って、学歴をひけらかしたがるものさ。」いつもは穏やかな砂知川もさすがに怒りを隠せない。一平のことを侮辱されて、五助は、差し違えてやろうかと思うほど、腹を立てていた。
「落ち着くんだな。」坂口という四十近い兵曹長が、五助をたしなめた。そして、薄い笑いを浮かべながらつぶやいた。
「海に出れば、板子一枚下は地獄よ。」
五助は驚いてその兵曹長を見つめた。
自分より十以上も下の若僧に侮辱されて、一平が面白かろうはずがない。しかし、特務士官と士官の差は歴然としている。艦に長く勤務するにつれ、一平は階級制度そのものに不信感を持つようになった。平時ならば、士官学校出とたたき上げの差は、些細な妬みですむところであるが、今は、戦時である。あんな実戦経験もない士官が作戦を遂行することもあるのだ。そうなったとき、自分の部下達はどうなるのだろう。
食堂にアップライトのピアノがおいてある。砂知川はそれを弾きたくてたまらないようだった。音楽学校出の生の演奏をぜひ聞いてみたいものだと、五助も思う。その日、夕食の後の自由時間に、砂知川がいつものようにピアノのカバーに触っていると、あの小田少尉がやってきた。
「貴様は、この非常時に音楽学校で何をやっとったのか。そんな女々しいことで、艦隊勤務が勤まると思うのか。」
嫌みな言い方だった。五助は海兵団の教班長を思い出す。口より先に手の出る人だったが、こんな嫌みな言い方はしなかった。同じ言葉でも、もっと暖かみがあった。それに、砂知川さんが音楽学校に入学した頃は、戦争は始まってはいなかったはずだ。
「貴様、その年までぶらぶらして恥ずかしいとは思わんのか。」
これは完全な言いがかりであった。五助達庶民と違い、学生達が二十六まで徴兵を免除されるのは誰でも知っていたことだからである。少尉の嫌みを砂知川は直立不動で聞いている。
「貴様のピアノの腕とやらを拝聴しようではないか。作曲科出ではたいしたことはあるまいが。」
「あいつ、許せない。」金田が小声でつぶやいている。それは、五助も同じだった。
「有り難うございます。小田少尉。何を弾けばよろしいのでありますか。」
「貴様は頭がついとらんのか。そんなことは自分で考えろ。」侮蔑的な口調でさらに続けた。
「そうだ、誰でも知っている曲でも弾いてやれ。どうせ無学な兵達には高尚な曲を聴かせてもわからんからな。」
「承知致しました。少尉殿の許可をいただき、私の判断で皆が知っている曲を演奏致します。」砂知川は少尉に敬礼すると、ピアノに向かった。
彼は、鍵盤に指を走らせた。感触を確かめるように、いとおしげに鍵盤に触れている。柔らかく美しい音色が、ピアノから響きだした。五助には何の曲か解らなかったが、クラッシックの名曲の一節に違いない。しばらく指を慣らした後、砂知川は呼吸を整えると、曲を弾き始めた。懐かしく、そして甘いジャズの調べだった。ダンスホールの思い出が蘇る。食堂にいる兵達はその調べにあわせるように、体を左右に揺らせた。
戦時下では歌うことを禁じられた曲である。彼らは心の中でその歌を歌った。
“リンゴの木の下で 明日また会いましょう 黄昏赤い夕日 西に沈む頃に・・・”
金田がつかつかと、ピアノのそばに近づいていった。砂知川に目配せすると、深呼吸を一つした後、金田は歌い始めた。ディック・ミネを彷彿とさせるバスバリトンの声で、彼は朗々と歌った。
「In the shade of the old apple tree・・・Where the love in your eyes I could see・・・When the voice that I heard・・・Like the song of a bird・・・・」
小田少尉の顔は、怒りで真っ赤になっている。
「ゆでだこだ。」
五助がぼそっとつぶやいた。周りの兵士達は、必死で笑いをこらえている。少尉が二人を止めさせようとした。その時、坂口兵曹長が
「楽しくほほ寄せて 恋をささやきましょう 深紅に燃ゆる想い リンゴの実のように 」
それに勇気づけられるように、兵達も次々と歌い出した。
「楽しくほほ寄せて 恋をささやきましょう 深紅に燃ゆる想い リンゴの実のように 」
やがて食堂は兵達の合唱に包まれた。砂知川は興に乗ったのか、ジャズピアニストがするように、アレンジを繰り返した。
小田少尉は、砂知川と金田を前に整列させた。顔は一層怒りで赤くなり、ますますタコそっくりになっている。
「貴様なぜあのような歌を弾いた。」
「私は、少尉殿の命に従ったまでです。」砂知川は平然と言った。
「何ぃ?」
「少尉殿の許可を受けて、私は誰もが知っている曲を弾いたのであります。」
確かに彼の言うとおりで、「リンゴの木の下で」は、当時一世を風靡し、誰もが知っている歌であったのである。
「屁理屈を言うな!」
屁理屈を言っているのはどちら様なのか、とでも言うように、金田の頬に冷笑が浮かんだ。
「貴様ら・・・・歯を食いしばれ、足を開け・・・」
文字通りの鉄拳制裁が加えられようとした、その時だった。
「何をしているか。」その場にいた者達は、一斉に振り向き、すぐさま敬礼した。
艦長の小西大佐が、副官や士官を引き連れて立っている。大佐は静かに言った。
「率先垂範を旨とすべき士官が、みだりに兵に私的制裁を加えるとは何事か。」
少尉は青くなって敬礼した。今までの勢いはどこへやらである。
「兵達の始末はお前に任せる。」艦長は、吉崎特務中尉に命令すると、食堂を後にした。
一平は、食堂にいた兵や下士官達に、兵員室で休憩時間が終わるまで謹慎を命じた。考えられないような軽い処分である。その処分から、一平もあのタコ(あのあと、五助達の間では、小田少尉に対しタコというあだ名が定着した。)を嫌っているのは明らかだった。この一件は、五助にとって胸のすくような出来事だった。
しばらくして、最上甲板で五助は吉崎特務中尉と話をする機会に恵まれた。夕食後の薄暮の時期であった。凪いでいた海に、陸風が吹き始めている。街の灯りも殆ど無く星が瞬き始めていた。
「あの時は本当にもうダメかと思いました。」艦長がきてくれなかったらと思うと五助はぞっとした。一平は黙っている。
「でも、いい気味です。艦長がいらしたときの、あのタコの慌てようと言ったら・・・」
「中村一等水兵。海軍は何を学ぶところか知っているか?」
「はあ?国を守ることですか?」そう言った五助に、一平は静かに言った。
「海軍はな、理不尽を学ぶところだよ。」さらに続けた。「海軍は無理編にゲンコツと書くんだ・・・・階級章一つ違えば虫けら同然さ。」一平は陸の方を見ている。
その言葉に、五助は呆然としている。しばらくして、若い兵士を気遣うように、特務中尉は話題を変えた。
「金田一等水兵はどうしている?」
「金田一等水兵は、自由時間も勉学に励んでおります。」
「あれは、本来なら、大学を続けるべき人間だ。たとえ独学でも続けていれば、何か方法があるだろうな。」
一平は、彼の行く末を気遣っていた。才能に恵まれた部下である。海軍砲術学校や水雷学校に入学できれば、理工系の学問が続けられるかも知れない。ゆくゆくは、自分のように特務士官になることも夢ではないだろう。
五助は金田の言葉を思い出していた。自分のことを話したがらない彼が、唯一言ったことだった。
「戦争が終わったら、俺は自分の国に帰りたい。そしてみんなのために、都市基盤や鉄道を整備したいんだ。そう言う仕事がしたいな。」
「吉崎特務中尉、立ち入ったことをお伺いしてもよろしいでしょうか?」
村にいた頃とは、立ち居振る舞いも別人のようになっている。一人前になったな。一平は微笑んだ。
「なぜ、ご結婚なさらないのですか?」産めよ増やせよの時代であった。
「今は非常時だ。後顧の憂い無く、戦いたいからだ。」
「お寂しくはないのですか?」
「厳島に乗艦して、足かけ10年になる。ここが私の家だ。そして、お前達が大切な家族だよ。」
すっかり暗くなっている。自由時間の終わりも近い。五助は敬礼すると、兵員室に戻ろうとした。別れ際に一平は言った。
「もうすぐ出撃があるらしい。」
「本当でありますか。」嬉しそうな声だった。
「待ち遠しいのか。」
「はい。一刻も早く、敵さんの艦隊を倒したいであります。」いよいよ出陣か、五助はワクワクしている。
「中村一等水兵。」その特務士官は静かに付け加えた。
「日本は負けるよ。」
しかし、五助の心は晴れなかった。出撃前に聞いた「日本は負ける」という一平の言葉が耳にこびりついている。なぜあのようなことを言ったのか。若い一等水兵には解らなかった。ミッドウェー海戦の惨敗は伏せられていたから、戦況の実態は一兵卒の知るところではなかった。顔色の冴えない五助を心配して、自由時間に砂知川と金田が医務室へ行くよう声をかけた。医務室に行っても治るはずもない。五助が断ると、砂知川がのんびりと言った。
「お医者様でも、草津の湯でもってやつかい?」
砂知川にとって、戦争の行方など本当にどうでも良いことなのかも知れない。全く浮世離れした人だな。五助は呆れてしまう。五助自身も楽天家の所はあった。海で生きる者は、一々細かいことにこだわっては居られないのだ。しかし、一平の言葉は重大で、兵の志気に関わること故、おいそれと口には出せない。それがまた、五助の心を重くしていた。
「何だ。隠し事か。水くさい奴だな。」
金田が言った。彼は、五助の悩みが砂知川のようなのんきなものではないと解っている。
「吉崎特務中尉に、何を言われたんだい?」
五助は黙っている。彼は皮肉な笑いを浮かべた。
「アメリカさんに負けるとでも言ったのかい。特務中尉は。」
五助は仰天して金田の顔を見つめた。しかし、次に聞こえてきた言葉に、彼は一層驚いた。
「なんだ、そんなことか。」
金田だけではない、砂知川も殆ど同時に口に出したのである。
三人は、慌てて周りを見回した。幸いにも兵員室には、三人の他誰もいない。なぜ知っているのかと言いたげな五助に対し、金田は声を潜めると説明し始めた。
いかにも理工系の学生だった金田らしい説明だった。軍艦を作るには鉄、動かすには石油が必要だ。しかし、その二つとも国内にはない。海上補給に頼るとしても、遠方から運んでくるのは効率が悪い。補給路が絶たれればお仕舞いだ。それに対し、米国は2つとも国内で補充できる。経済力も日本よりずっと高い。戦艦や航空機の補充は簡単だ。
「じゃあ、金と油と鉄だって言うのかい。」いかにも物質主義的な金田の説明に、五助はふくれっ面になった。
そんな五助に対し、砂知川のした説明は変わっていた。彼は、米国は金持ちだという。そして、人生を楽しんでいる。そんな人間達には余裕が生まれる。この国の人間は、確かに一生懸命だ。でも、全然余裕が無いじゃないか。余裕のある人間と無い人間が喧嘩したら無い方が負けるだろう。国だって同じだ。
「じゃあ、何でこんな戦争始めたんです。」五助は思わず言った。
「何で始めたんだろうなぁ。」砂知川もため息をついた。
「負けるんだろうか。」五助は不安になった。
否定して欲しい。彼は心の中で思った。しかし二人は何も言わなかった。
「なあ、中村、」金田が尋ねた。
「お前は漁師だろう。海に出て、嵐に巻き込まれたらどうするんだい。」
そんな間抜けな漁師は、日本の、いや、世界のどこを探してもいないだろう。
「どうすることもできないよ。とにかく嵐の前に港に帰ることだけど。もし、巻き込まれたら」五助は考えた。
「運を天に任せて、嵐が過ぎるのを待つだけだなぁ。運が良ければ助かるぐらいかなぁ。」
「俺たちも、大嵐に巻き込まれてるんだ。運が良ければ助かる。それしかないんだろうよ。」金田がため息をついた。
戦艦・厳島の行き先は、R泊地である。ここに集結中の第一航空艦隊と合流し、M海に向け出撃する命令が下っていた。途中、敵潜水艦や、駆逐艦などとの散発的な戦闘はあったが、おおむね順調に寄港することができた。出撃前に、小西大佐は、艦の兵士達に上陸を許可した。カーキー色の作業服ではなく、白地の第二種軍装に着替えての上陸である。兵士達の喜びはひとしおだった。
五助達三人は、停泊地近くの日本兵街に行くことにした。熱帯の青く澄んだ空、まぶしい太陽の光、極彩色の鳥が飛び、街路樹に色とりどりの蘭の花が咲き乱れている。内地とは比べものにならないほど、鮮やかな色彩にあふれている。外地が初めての五助は夢中であたりを見回した。
「カフェに行こう。」砂知川が五助を呼んだ。
そんな洒落たものに入るのも、勿論、初めてだ。街路樹の緑の向こうに、カフェが見えてきた。コロニアル形式に似た二階建てのラウンジで、籐椅子に腰掛け三人は食事を取った。食事をゆったりととれるのは、出征後初めてだった。マンゴーやパパイヤなどの熱帯の果物は舌がとろけそうなほど甘い。給仕にきた若い現地の女性達と、彼らは談笑した。南の島での休日を満喫し、五助は植民地の“偉いさん”になったような気がしている。
一平は艦内を巡回していた。特に、主砲や高角砲等の兵装を念入りに検査した。既に整備が終わっているはずのもので、一平が検査する必要もなかったのであるが、何か気を紛らわさずにはいられなかったのだ。見ると、坂口兵曹長も同じように巡回している。
「吉崎特務中尉、巡回ですか。」
一平は苦笑した。
「坂口兵曹長、街に行って来れば良かったのに。」
「特務中尉こそ。」
二人は最上甲板に出た。主砲を見上げながら、頑張ってくれよと坂口兵曹長は声をかけている。
「今度の海戦は、日米の、文字通り最後の決戦になるだろうな。」一平がつぶやいた。
「どんな作戦なんでしょうね。」
「多分、航空戦力を結集して、向こうさんの機動部隊を叩く気だろうよ。」
「じゃあ、ミッドウェーの雪辱戦ですね。零戦の航続距離は世界一だから、それを利用して、遠方から攻撃して、敵の艦載機を」
「撃墜した後、こちらの戦艦が、砲撃戦を行う。そんなところだろうな。成功すればいいが。」
「きっと成功しますよ。零戦にかなう敵機は、どこにもないじゃないですか。航続距離・旋回性能・飛行速度。格闘戦をやって零戦に勝てる戦闘機は文字通りゼロです。」そう言いながらも、坂口兵曹長の顔色は冴えない。
「大事な作戦前だ。少し休息をとれ。」坂口兵曹長は、敬礼すると上甲板へ降りていった。
休息する気はあるまい。一平は部下の背を見ながら考えた。
虫の知らせというものだろうか。いつもならば戦いの前は気分が高揚するのだが、今回はなぜか気分が晴れなかった。下士官達の様子だけではない、この厳島も何か発する気が違う。そんな気さえした。意気地のないことだ。一平は自身に喝を入れている。制海権を維持するためには、制空権の維持が絶対条件だ。そのためには敵空母を撃沈し、航空戦力にダメージを与えることが一番のはずだ。零戦の航続距離を利用して、射程距離外から攻撃できれば、空母を敵の主砲から守ることができる。兵曹長の考えのとおりなのだ。
だが・・一平はさらに考える。特務士官や下士官風情で考えつくような戦法で果たして、敵機動部隊をたたけるのだろうか。いや、全く思いもつかないような戦法を司令部は考えているのかも知れない。彼はため息をついた。俺も焼きが回ったものだ。下手の考え休むに似たり、もはや戦いは始まっている。あとは、最善を尽くすのみのはずだ。一平は、高角砲を見上げた。
「頑張ってくれよ。」あとは心の中でつぶやいた。敵機来襲の時はお前達が頼りだぞ。
「土産買わなきゃ。」帰り道、五助が二人に言った。
「そうか、郵便船が来ると言ってたな。」金田も答えた。
故郷からの便りが来るという。この戦地で。本当に思いがけないことだった。カフェにほど近い、土産物屋で何か見つけることにした。五助は一抱えもあるバナナを買った。これなら、弟たちも腹一杯食べられることだろう。砂知川は洒落た絵はがきや便箋を求めている。女学生が好みそうなものだった。妹さんへの土産だな。五助はそう思った。金田は地図を買っている。誰への土産だろう。五助は不思議そうにその土産を見ている。
艦に戻ると、既に郵便船がきていた。慰問袋に入った家族からの贈り物を、兵士達は受け取った。懐かしい故郷の風が吹いている。彼らは、残してきた家族のことを思い起こした。兵士達は土産とともに家族への手紙を書かかされた。
「俺、手紙が一番苦手だぁ。何書いて良いか解らないや。」五助がぼやいた。
「何でも思ったとおり書けばいいさ。」金田が平然と言う。
「冗談じゃないよ。書けるわけ無いじゃないか。」
五助が言い返したのも当然で、海兵団以上に班長の検閲は厳しかったのだ。日本は負けると言っていたなどと書けば、どんな罰直(制裁)が下るか解らない。せいぜい、熱帯の島々が美しいことと、お国のために頑張ってますと言ったありきたりのことしか書けないのである。バナナと手紙を渡すと、早速班長にからかわれた。
「食い意地の張った奴だなぁ。お前という奴は。こんなにバナナを買い込みおって・・・」
班の兵士達は、大笑いしている。五助は、バナナを持って各兵員室を巡回させられた。戻ってきた五助を二人は慰めた。
「ひでぇなあ」五助はぼやいている。
「可哀相な目にあったなぁ。気にするなよ。」砂知川が気の毒そうに言った。
「兵曹達も、俺たちに里心がついて、戦意喪失は不味いと思ったんだろうさ。お前を笑い飛ばすことで喝を入れたかったんだろうよ。」そう言うと、金田は五助の肩を叩いた。
次の日、郵便船は去っていった。戦艦・厳島は、その日、最後の整備に追われた。
翌未明、艦長・小西大佐は、最上甲板に総員を整列させた。
「これより、厳島は、第一航空戦隊を護衛し、M海に向かう。ミッドウェーの雪辱を果たすべく、米太平洋艦隊との雌雄を決する時はきた。皇国の興亡を賭けて、この一戦に期待する。健闘を祈る。総員、直ちに戦闘配置につけ。」
第一航空戦隊は、空母を中心とする機動部隊の
一平は空母を見つめている。聯合艦隊の主力が結集したのだ。勝てるかも知れない。いや、勝つに決まっている。零戦が、敵戦闘機を叩いてくれれば、それに、向こうさんの戦闘機は速力に劣るF4Fだ。大丈夫、きっと勝てる。一平は前日までの不安を打ち消すように頷いている。
翌日未明、聯合艦隊は、M諸島沖、300海里の位置まで迫った。索敵機から敵主力艦隊発見の報を入電。いよいよ作戦開始である。午前7時半、第一次攻撃隊250機が発進した。
「総員見送りの位置に着け」の放送の元、戦艦・厳島の最上甲板でも兵士達が発進する攻撃隊に敬礼をしている。朝日の中、次々と航空機が発進していく。操縦士達は訓練を積んだ勇者達であり、搭乗機は空の王者・零戦である。ミッドウェーの雪辱を果たすときは着た。皆勇躍して、敵戦闘機を打ち落とすことだろう。結果が解るのは五~六時間後だろうが、その後が我々の出番だ。一平は思う。
幸いにも、電探に敵駆逐艦や潜水艦の姿はない。まだ、我々は発見されていないのだ。一平は安堵した。
その頃、太平洋上に展開するアメリカ海軍駆逐艦から、艦隊司令部にある無電が入っていた。
「日本艦隊空母ヨリ、戦闘機250機発進。西ニ向カイツツアリ。」
戦局を挽回するため、第一機動艦隊司令長官・小沢中将は、アウトレンジ戦法により、米機動部隊との決着をつけようとはかった。これは、数の上で劣勢な聯合艦隊が、零戦・彗星の航続距離を利用し、米軍機の行動範囲外から敵艦隊に攻撃を加える、まさに必殺の戦法であったのである。一平や坂口兵曹長が考えたように、零戦の機能をフルに生かせる作戦であった。しかし、米太平洋艦隊は、その時既に、零戦に対抗する新鋭戦闘機、グラマンF6Fヘルキャットの大編隊の編制を終了し、さらに、200km手前から敵の位置を正確に把握できるよう、高性能の
敵機来襲の報を受け、ただちに米艦隊は、F6Fヘルキャット450機を発進させた。さらに電波誘導システムで、F6Fを零戦の真上まで正確に誘導したのである。
目立った妨害もなく、第一次攻撃隊は西進した。攻撃目標まで後わずか、突如、上空より敵の大編隊が襲いかかった。急降下する敵をかわすべく、操縦桿を引くも、凍り付いたように動かない。止まったように見える零戦に対し、F6Fヘルキャットの12.7mm機銃が火を噴いた。防弾装甲の薄い零戦では、機銃掃射さればひとたまりもない。次々と爆発、操縦士ごと洋上に砕け散った。後にM海のターキー・ショット(七面鳥うち)と嘲笑された大惨敗である。
F6Fの攻撃を免れた零戦はわずかである。彼らは果敢にも米艦隊に対し攻撃を仕掛けた。しかし、待ち受けていたのは凄まじいまでの対空砲火であった。米軍の砲弾は、命中せずとも爆発し破片を四方に散乱させ、零戦を爆発炎上させる。何事が起こったのか理解する間もなく、若い操縦士達は南太平洋上に散華した。彼らを打ち落としたのが、新兵器・VT信管搭載の対空砲弾だったのである。
零戦の優れた格闘性能・速力、その恐ろしさを身にしみて知っていた米国は、総力を挙げて新兵器を開発した。一つがF6Fヘルキャットであり、もう一つがVT信管だったのである。このVT信管開発には、マンハッタン計画に匹敵する予算が組まれたという。まさに、金田一等水兵の分析の通り、「経済力」であった。
第二次攻撃隊六五機もなすすべもなく、F6FとVT信管の餌食になった。もはや、聯合艦隊を守ってくれる航空戦力は無いも同然である。着艦したパイロット達を休ませると、米太平洋艦隊はゆっくりと進撃を始めた。
目標、日本海軍、第一機動艦隊・第一航空戦隊。一平達の乗る戦艦・厳島が護衛する空母艦隊にねらいを定めたのである。
発進してから既に6時間が経過した。一つの無線も、一機の帰還機もない。何事が起こったのか。このような場合、待つ方に心理的な負担が大きい。一平は不安になる。
その不安は、小西大佐も小沢中将も同じ事だろう。
左舷に機影が見える。敵機か。緊張が走る。しかしそれは、攻撃隊の残存部隊だった。厳島を初めとする艦は主砲・副砲を下げた。
突如「左舷四五度より、敵機、数一〇〇以上。対空戦闘」
敵は攻撃隊に水先案内でもさせるように、進撃してきたのである。その数、空母14。戦闘機300・・・
五助は、12.7cm高角砲の照準を合わせる。やがて太陽を背にして、新鋭戦闘機F6Fが急降下してきた。
「くそっ。」
まぶしくて機体がみえない。気力で照準を合わせ、対空砲火を敵機に浴びせる。しかし、敵機は嘲笑うかのように、悠々と旋回し、機銃掃射を浴びせかけた。至近弾が炸裂し、腹の底を揺るがすような衝撃が走る。
当たってくれ。彼は自分の未熟さを呪った。五助は知らない。自分の戦っている敵が最新鋭戦闘機であることを、そして、自分たちの砲弾が命中率の低い通常砲弾だと言うことも。零戦は、友軍機はどこだ。高角砲や機銃では上下左右に旋回する敵機を撃ち落とすことができない。早く戻ってきてくれ。
「助けてくれ。」
砂知川はその悲鳴を聞いた。いや、聞いたように思った。一瞬照準から目を離し、後方の空母を見る。司令部のある新鋭空母・大鳳に火柱があがっている。頭が真っ白になり何も考えられない。考えている場合ではないのだ。今すべき事は、敵機を高角砲で打ち落とす、それだけである。
駆逐艦が救助に向かっている。それより速く、微かな白線が海面に走り、空母に向かって一直線に進んだ。魚雷だ。炎があがり、次々と誘爆していく。やがて飛行甲板がふくれあがったかと思うと、轟音とともに火柱があがった。空母は船尾から沈没した。炎が重油に反射して、海を赤黒く染めていた。
護衛する戦闘機のない艦隊ほど惨めなものはない。瀕死の鯨にまるでカマスが襲いかかるように、F6Fは攻撃を繰り返した。巡洋艦が、駆逐艦が、機銃掃射を受けている。その後を追いかけるように、爆撃機がとどめを刺した。厳島の僚艦・金剛が、火だるまになっている。
一平は、その頃主砲室で命令を下していた。
「前方の敵空母艦隊に向け主砲発射。撃って撃って撃ちまくれ。」
戦況はきわめて悪い。攻撃隊は全滅だ。主砲室にいても、機銃掃射の衝撃や、僚艦の爆発が伝わってくる。なぜなんだ。作戦が、これほど一方的な負け戦になるとは。俺は、この戦争は負けると思っていた。しかし、ここで死ぬわけにはいかない。なんと哀れなものだろう。戦闘機相手では、主砲も副砲も役に立たない。高角砲と機銃に委ねるしかないのだ。それも、旋回性能の優れた戦闘機には、歯が立つまい。
「特務中尉。主砲が動きません。」第一主砲砲塔より悲鳴のような入電が飛び込んでくる。
「うろたえるな。工作兵を派遣する。」至近弾の衝撃で、電路が絶たれたな。この大事に、一平は歯ぎしりした。
「空母・翔鶴を守れ。」
艦長の命令の下、厳島は翔鶴にぴたりと併走した。翔鶴の楯となり、襲いかかる敵機を、対空砲火で撃退するつもりだ。対空戦闘の指令を聞くまでもなく、五助は高角砲を撃ちまくった。しかし、当たらない。攻撃隊、早く帰ってきてくれ。
敵機は、厳島に照準を合わせたようだ。数十機で襲いかかり、高角砲や機銃に一斉掃射を浴びせかけた。機銃座の水兵が、吹き飛ばされるのが、五助の視界に入ってきた。
洋上だけではない。水面下にも敵が存在する。厳島の奮戦を嘲笑うかのように、敵潜水艦の魚雷は空母・翔鶴に着弾した。翔鶴は爆発炎上し、海底に沈んだ。
「艦長。翔鶴が。」
艦橋の副官が叫んだ。翔鶴だけではない。姉妹艦・瑞鶴の飛行甲板も火の海だ。第一戦隊は全滅だ。
「左舷より敵機」
沈みゆく夕日を背に、海面すれすれの低空飛行で侵入する敵編隊が見える。新鋭雷撃機TBF。あの角度では、主砲も高角砲も射程範囲外だ。
左舷海面より敵機の報を受け、一平は命令した。
「主砲・副砲・高角砲、角度を最小にして敵雷撃隊を撃て。」ダメで元々だ。
やがて、地響きのような衝撃が加わると、主砲室が左に傾いた。雷撃を食らったな。もう、この艦はダメだ。
「みんな、逃げろ。」一平は叫んだ。
「左舷船倉に魚雷被弾。」
艦橋は大きく左に傾いた。既に浸水が始まっているのだろう。沈没するのも時間の問題だ。
「総員退避。脱出せよ。」直ちに艦長・小西大佐は命じた。
「総員退避。竹浮き輪を用意しろ。」厳島の乗員は次々と海に飛び込んだ。
「中村、砂知川、早く。」金田が叫んでいる。
五助は我に返ったように、最上甲板に飛び出した。
「金田一等水兵、吉崎特務中尉が。」一平さんがまだ下甲板にいる。
「馬鹿野郎!早く飛び込め。人のこと構っている場合か。」金田は五助に怒鳴った。
「ここで死んでたまるか。俺は、靖国の英霊になるなんて真っ平だからな。」
船尾に火柱があがった。轟音の中で聞こえたのは、あるいは空耳だったのかも知れない。
「俺は生きて、何としても自分の国に還ってやる。」金田は飛び込んだ。
「早く、中村君。」
砂知川に促されるように五助も飛び込んだ。重油の浮かんだ黒い海だ。べったりとした感触が不快である。目がひりひりと痛む。運良く竹浮き輪がそばに浮かんでいた。五助と砂知川はそれに掴まると、急いで艦から離れ始めた。大型艦ほど沈没で巻き込まれる範囲が広くなる。海に飛び込んだ将兵達は、少しでも厳島から離れようと皆必死で泳いだ。厳島は船首を空に向けるように垂直に立つと音もなく沈み始めた。艦橋に艦長・小西大佐の姿が見える。戦艦・厳島と運命を共にする気なのだ。
「艦長・・・」砂知川がつぶやいた。
五助と砂知川は、何人かの兵士達といっしょに、竹浮き輪にしがみついている。浮き輪といっても、孟宗竹を切りそろえた幅の狭い筏である。みんなどうしただろう。五助は心細くなってきた。
「砂知川さん、金田さん大丈夫かな。」
「大丈夫だよ。金田君、飛び込むとき叫んでたじゃないか。絶対に生きて帰るって、あれだけ意志が強ければ平気さ。」
「吉崎特務中尉は?」
五助は不安になる。一平は下甲板の主砲室にいた。脱出できただろうか。砂知川も黙っている。おそらく同じ事を考えているのだろう。暗闇に目が慣れてくるにつれ、海面の様子がわかってきた。方々に、木片や竹浮き輪が浮かんでいる。それにしがみついている兵士達が見えた。みんな無事だったのか。五助は安堵した。しかし、五助達の竹浮き輪に近づく人影がある。もう、こっちに来るなよ。これ以上来られたら、竹浮き輪が沈んでしまう。五助はそう思った。
「大丈夫か、お前達。」一平の声だった。
「吉崎特務中尉、ご無事で。」みんな口々に叫ぶ。五助は恥ずかしくなった。
「いいか、夜が明けるまでの辛抱だ。決して眠ってはいかんぞ。むやみに動いて体力を消耗するな。夜が明ければ、友軍の駆逐艦がやってくる。」
一平の言葉に、漂流している兵士達は勇気づけられた。穏やかな海だ。しかし、波は間断なく寄せてくる。次第に体がしんしんと冷えてきた。熱帯の海といえども、人間の体温よりは低い。体温が下がるにつれ、腕が鉛のように重くしびれてきた。流れ出した重油の匂いで、頭がぼうっとなってくる。朝からの戦いで疲労と空腹の極みにいる兵士達は、次第に睡魔の虜となっていった。掴まっていた腕に力が抜け、筏から離れ始める。そうなったら二度と戻っては来ない。
「眠るな。眠ると死ぬぞ。みんな歌でも歌え。」
一平の声に促されるように、五助達は声を張り上げた。
「いやじゃありませんか、軍隊は、
しゃれにならないな。一平は苦笑しつつ声を合わせた。
戯れ歌で元気付いたのもつかの間、兵士達は眠り始めた。五助も滑り落ち、一瞬竹浮き輪から離れた。
「あ、あれ?」
「バカ者。」一平が引き戻した。「本当に仏様になっちまうぞ。」
五助は慌ててしがみついた。一辺に目が覚めたらしい。世話の焼ける奴だ。ちっとも変わっとらん。一平は昔を思い出した。
中天に月が出ている。いつの間に昇ったのだろう。五助は空を見上げる。
「砂知川さん。月が綺麗だよ。」
しかし、砂知川は答えない。
「砂知川さん!」
やがて、彼は滑り落ちるように筏から離れた。慌てて手首をつかむ。離れようとする砂知川を引き戻そうと、五助は懸命に引っ張った。だが、力が入らない。
「何をしている!」一平が怒鳴った。
「砂知川さんが・・」
「手を離せ。砂知川一等水兵はもう助からん。お前まで死ぬぞ。」
「特務中尉。でも・・」
「手を離せ。命令だ。」
五助は、砂知川の胸ポケットを探った。もし、死ぬようなことがあればと、お互いに遺品を入れておく場所を教えていたのだ。果たして、油紙に包んだ手帳らしきものがあった。
五助は筏に戻った。砂知川はゆっくりとみんなから離れていく。視界から消えていくのを五助は涙に濡れた目で見ているだけだった。さようなら、砂知川さん・・・自分を実の弟のように可愛がってくれた年上の一等水兵に、五助は心の中で手を合わせた。
何回か波が打ち寄せ、竹浮き輪が反転する。その度に、兵士達は海に投げ出され、また筏にしがみつかねばならない。しかし、次第にその兵士の数は減っていく。いつまで持つか。一平も不安になった。
力尽きた日本兵達が、海に沈んでいく。それを待ち受けているもの達が居る。既に海中は、バラバラになった将兵の手足を漁るサメの饗宴が始まっている。兵士の遺体は彼らにとって、エサに過ぎない。引きちぎられた遺体から出る血が、彼らを興奮させる。エサの取り合いがあちこちで始まっている。
惨い有様だった。米軍兵士は皆、ゴムの救命胴衣を身につけていた。逃げ遅れて艦に取り残されたのならともかく、力尽きて海に沈む者は居なかった。浮かんでさえいれば、助かる可能性だってあっただろうに。何と彼らの命は安く扱われていることだろう。しかし、どうすることもできない。救命胴衣を作ることのできる石油が、日本にはもう殆ど残ってはいないのだ。
海中を、かつて砂知川一等水兵だった骸が漂ってきた。まるで、眠っているような穏やかな顔だった。砂知川の周りを旋回する大ザメは、しばらくその死に顔を見つめていたが、やがて砂知川の亡骸を一のみにした。
月が傾いてきた。まだ夜明けには遠い。一平の手もしびれて感覚がない。さすがの彼も死を覚悟した。その時、聞き慣れた音がした。カッターを漕ぐ櫂の音である。
「誰かいるか。」
微かに声がする。
「おーい、こっちだ。」
一平は叫んだ。漂流している兵士達も、次々に声を上げる。カッターが徐々に近づいてきた。兵士達を救助している。早くこっちにきてくれ。五助はいらいらした。
「ご無事でしたか。吉崎特務中尉。」
坂口兵曹長だった。一平と五助は竹浮き輪からカッターに引き上げられた。その竹浮き輪に掴まっていたのは彼ら二人だけだった。
「お前も良く無事で。」一平は兵曹長をねぎらった。
「後何人乗れるか。」兵曹長は水兵に聞いている。
「二人が限界です。」
おそらくもっと多くの兵士が周りに漂流しているに違いない。
「ロープに掴まれ。」
坂口兵曹長は、漂流兵達を励ました。
見ると、士官のものらしい銃と短剣がおいてある。あの小田少尉のものだった。あのタコも乗っているのか、五助は不快な気分になる。しかし、その姿はなかった。
「小田少尉は。」一平が尋ねる。
「お亡くなりになりました。ご遺体は丁重に水葬に致しました。」坂口兵曹長は少し目を伏せてそう答えた。
兵曹長の両の掌に、ロープですったような赤い筋がついているのを五助は見た。
「兵曹長、お怪我を」
「ああ、これか。」
彼は手の擦り傷を一瞥した。そして、かつて厳島の甲板で五助が見たものと同じ、薄い笑いを浮かべた。
主計兵が一平に乾パンと砂糖入りミルクを持ってきた。一平は救助した他の兵士達に先に与えるよう促した。こんな旨い食事があったのだろうかと思うほど、乾パンとミルクは旨かった。皆夢中で食べている。食べ終わると、体が暖かくなってきた。五助は一平に話しかけた。
「召し上がらないのですか?」
「うむ、後で食べるよ。」
カッターに乗った兵士はしばらくは持つだろう。しかし、漂流している者達の命は、あと、二・三時間が限界だろう。決断しなければならない、それもなるべく早く。特務中尉と兵曹長に、重い決断を迫る時間が近づいている。
助かった。腹が満たされると五助は微睡み始めていた。水兵達の声が次第に遠ざかる。穏やかな夜の海だ。
不意に、船底に海中から突き上げるような振動が伝わってきた。皆、振り落とされないようしがみつく。カッターの左舷から、黒い三角形のものが浮き上がってきた。さざ波を立てながらそれは、漂流兵に向かって進み、直前で姿を消した。次の瞬間、兵士を大あごにくわえて、月明かりの中、銀灰色の大ザメが海中から垂直にジャンプした。
「サメだ!」
兵士の絶叫ととともに、血がさっと海中に広がる。
それが、まるで何かの合図だったかのように、竹浮き輪に掴まった兵士達が海に引きずり込まれた。獲物をもてあそぶかのように、次々と大ザメがジャンプする。カッターにも銀灰色のサメが群れをなして襲いかかってきた。また、突き上げるような振動が加わった。サメが水中から体当たりしてくる。転覆させられ、海に放り出されたら最期だ。いかに聯合艦隊の歴戦の勇士といえども、サメにかなうはずもない。
こんな奴らに食い殺されてたまるか。五助は櫂を握った。
「全力でカッターを漕げ。脱出するぞ。」兵曹長が叫んだ。
一隻のカッターに大ザメが襲いかかっている。
乗組員達は、オールや棒で大ザメを追い払おうと必死だ。しかし、彼らが打ち据えているのは、大ザメだけではない。必死にすがりつく仲間を打ち据え、海に蹴落としているのだ。蹴落とされた仲間に大ザメが食らいついている。将校の服を着た男が、大ザメに、そして仲間の人間に銃を撃っている。大ザメには通じないが、人間は一溜まりもあるまい。
もし、地獄というものがあるとするならば、それはこのような光景なのだろうか。
大ザメたちが体当たりを繰り返し、カッターが木の葉のように揺れている。転覆させられ、兵士達がサメの餌食になるのも時間の問題だ。
その時、長かった夜が明けた。太陽の光が海面に広がっていく。
一平達は呆然としている。朝日と共に、大ザメたちは一瞬にして姿を消した。何事もなかったように穏やかな海が広がっている。漂流していたはずの兵達も一人も見えない。
「吉崎特務中尉。我々は夢でも見ていたんでしょうか?」五助が尋ねた。
夢であって欲しい。悪夢であったと。五助の顔がそう言っている。
「中村一等水兵の言う通りだ。我々は集団幻覚を見たらしい。心を平静に保ち、これからの漂流に備えよ。主計兵。皆の食料は後何日残っているか。」
「15日分であります。しかし、定員以上乗り込みましたので、10日分が限度かと思われます。」
「では、お前に食糧の管理を任す。」
主計兵は敬礼した。
兵達に休憩を兵曹長が命じている。兵士達は見張りをのぞき、微睡みに入ったようだった。坂口兵曹長が、一平の手から、小田少尉の銃をはがした。そうして、顔色も変えず海に投げ込んだ。兵達は、幻覚と信じたのだろうか。幻覚と思わなければ、若い彼らには耐えられないだろう。一平は思う。
だが、現実なのだ。
一平は手を見つめる。
この手で、俺は銃を撃った。自分たちが助かりたい一心で、俺は銃を撃ったのだ。たとえ、証拠の銃を捨てたとしても、この手についた血の跡は、生涯消えることはないだろう。気がつくと、坂口兵曹長が、特務中尉を見つめていた。一平は頷くと、微かに微笑んだ。
二週間近い漂流の後、一平達は奇跡的に、駆逐艦に救出された。彼らはF島の海軍基地に搬送された。ここで、一平に特務大尉への昇進が伝えられた。
「吉崎特務大尉。ご昇進おめでとうございます。」
坂口兵曹長にそう言われ、一平は苦笑している。何が特務大尉だろうか。聯合艦隊には、乗れる艦はもう殆ど残っていない。乗る艦もなく、何処が海軍なのだろうか。
「まさに陸に上がったカッパだな。」一平は兵曹長にぼやいた。「こんな事なら、航空兵にでもなっておくんだった。」
「飛んでいるのは、敵機ばかりですよ。」坂口兵曹長が、慰めた。
あの海戦で、空母機動部隊は全滅した。大和は健在だったが、航空戦力が壊滅している以上、あの戦艦も持てる力を発揮できるとは思えない。また、警戒警報が発令された。守備隊は、高射砲を撃っている。敵は悠々と旋回し、四方に爆弾を投下した。こちらに戦闘機が無いことをよく知っているのだろう。一平は塹壕から空を見上げた。
五助は、カッターで同乗した主計兵と食料探しをする羽目になっている。機雷封鎖されたため、補給が殆どできなくなっているのだ。内陸部の陸軍守備隊はもっと深刻だという。ここが、餓島(ガダルカナル島)と化すのも時間の問題だろう。 |
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「我々は、どうなるんですか?」ある日、五助が不安げに訪ねた。「ずいぶん、良い待遇です。しかし、後でひどい目に遭わされるんじゃ無いでしょうか?」
「そんなことはあるまい。ジュネーブ条約ってものがある。アメリカさんはそれを守る気だろうよ。問題はその後、日本に帰ってからだ。」一平は言った。
一平は頷くと、そのまま外のジャングルを見つめた。
日本には帰れるだろう。それもそんなに遠い日ではない。一平は思った。彼らが帰るとき、それは大日本帝国が負けたときに他ならない。勝った国が負けた国にしてきたことを思うと、故国の未来に対し暗澹たる気持ちになるのだった。植民地にされたアジアの国々を、また、アメリカ国内でも黒人やインデアンに対する差別を、五助と違い一平は自分の目で見てきた。それと同じ事を日本に対してもするに違いない。そんな話をまだ若い五助にする気にはなれなかった。なんで、こんな戦争を始めたんだ。勝ち目のない戦争をなぜ。一平の心はこの考えに突き当たると、その周りをぐるぐると回っている。
その日、ハミルトン中尉は、捕虜達を中庭に整列させた。
いつもと違う緊迫した状況に、捕虜達に不安が広がった。いよいよ処刑されるのか。それならば一矢でも報いてやろう。捕虜達の動揺を見透かすように、米軍兵士達が機関銃を構えながらぐるりと周りを取り囲んでいる。
「コレカラ、ジュウダイ、ハッピョウ、ガ、レィディオ、デ、アリ、マス。」たどたどしい日本語でハミルトン中尉が説明した。
捕虜達は、ラジオから聞こえる音声に集中した。ひどく聞こえにくく、とぎれとぎれの音声であった。初めて聞く声であった。
「朕深く・・世界の大勢と・・帝國の現状とに鑑み・・・・・・・堪へ難きを堪へ・・忍ひ難きを忍ひ・・以て万世の爲に太平を開かむと欲す・・・」
一平の心の中の、何かが砕け散った。
「吉崎特務大尉、何と言っているんです。」五助には難解すぎて理解できなかったのだ。
しかし、答えはない。「特務大尉!」
「負けたんだ。」ようやく一平は、つぶやいた。
「え?」
「大日本帝国は負けた。無条件降伏だ。今それを、陛下自ら、我々に述べられたんだ。ラジオから聞こえたのは、陛下のお声だ。」
五助の膝が小刻みに震えた。口の中がからからになるのを感じる。
「うそだ。そんなこと、嘘だ。負けるなんて、負けるなんて、何のために、俺たちは・・・」
五助は叫んだ、と思った。しかし、それはかすれた声にしかならなかった。
負けた。衝撃が捕虜達に広がる。
自暴自棄の攻撃を恐れて、米軍の兵士達は銃を構えた。しかし・・・、
一人、また一人と捕虜達は膝をついた。ある者は顔を土に埋め、ある者は地面を拳でたたいた。何のために戦ってきたのか。何のために、全てを犠牲にしたのか。何のための努力、何のために、何のために多くの者が死んだのか・・・。
捕虜の口から嗚咽が漏れた。一平も肩を震わせ、必死に涙をこらえた。今までの出来事が走馬燈のように浮かんだ。全てが終わった。何もかもが。貧しかった少年時代、入隊し訓練に精進を重ねた日々、戦功を立て昇進する夢、その全てが灰燼に帰したのだ。
ハミルトン中尉たちは、呆然と捕虜の様子を見つめている。無表情な日本兵達が見せる初めての激しい感情に彼らは戸惑った。しかし、信じていたものを全て失った日本兵の痛ましい姿に、米軍兵士達も同情を禁じ得なかった。彼らは既に敵ではなくなった兵士達を、黙って見つめることしかできなかった。
玉音放送を聞いた後、彼らは腑抜けのようになった。反抗的な態度を見せることもなく、従順に仕事をこなしていったが、目から光が消え、顔はいっそう無表情になった。人間というものは、どんなに戦況が厳しくとも、一縷の望みに賭けるものなのだろう。それがついえたとき・・・
戦争は終結したが、戦闘が終結したわけではない。ここF島でも、一平達海軍の部隊は降伏しても、山間部に展開する陸軍は未だに抵抗し続けた。早急に戦闘を終結させ、米軍の犠牲も最小にとどめねばならない。ハミルトン中尉は決断を迫られている。
ある日の夕食時に一平達の前でハミルトン中尉が、演説を始めた。いつもは片言の日本語で短い挨拶をするだけだが、この日は違った。彼は緊張した面差しで、壇上に立ち、英語で切々と何事かを訴え始めた。
「なんて言ってるんだろう?」五助が思わずつぶやいた。
「黙れ。」一平がたしなめる。
『勇敢なる日本の兵士諸君。あなた方はよく戦った。しかし、日本帝国はポツダム宣言を受理し、ここに完全に第二次世界大戦は終結したのです。もはや、あなた方は、我々の敵ではありません。我々と同じ仲間、友人です。同じ仲間としてあなた方にお願いがあるのです。お願いです、私の英語がわかる方、ぜひ協力して頂きたい。ここF島には、まだ、日本陸軍の残存部隊が、山間部に展開し、アメリカ軍に攻撃を仕掛けています。これ以上、彼らに無駄な犠牲を払わせたくないのです。我々は、彼らを全滅させるに十分な重火器も兵力も持っています。現地人の力を借りれば、本拠地をつくことも可能でしょう。しかし、戦争はもう終わったのです。これ以上の戦いは無意味だ。どうか皆さん、皆さんの友人である陸軍の兵士達を投降させる手助けをして下さい。そのためには、私の言葉を通訳する日本の兵士がどうしても必要なのです。どうか、我々にこれ以上、日本の兵隊を殺させないで下さい。』
ハミルトン中尉は、ここまで一気に演説すると、大きく息を吐き、コップの水を半分ほど飲んだ。
「なんていったんです。あの米兵?」五助が再び訪ねた。
「陸さんを降伏させるから、その通訳をして欲しいそうだ。」
「なんだ、楽して勝ちたいだけじゃないか。卑怯者。死ぬのがそんなに怖いのかよ。」五助は不愉快そうだった。
誰だって死にたくはない。そうだ、誰だって。一平はかすかに笑った。
「アメ公に協力するなんて真っ平です。」五助がささやいた。一平は眉をひそめた。
ハミルトン中尉は再び演説を始めた。
『日本軍は、武器弾薬だけでなく食料も医薬品も不足しているはずです。この瞬間にもジャングルの中で命を落としている兵士もいるかも知れません。皆さんの中で、私の通訳ができる方、協力をお願いします。それが、一人でも多くの仲間を救うことになるのです。・・・』
一瞬だが、一平はその若い米軍将校と目があった。一平はゆっくりと立ち上がった。
「特務大尉!」刺すような五助の言葉を背に、壇上に近づいた。
ハミルトン中尉は、近づいてくる捕虜を見つめた。30半ばの、日本人の中では背が高い面長の顔立ちの男だった。男は近づくと、口を開いた。
『ハミルトン中尉、私は海軍特務大尉、イッペイ・ヨシザキです。私でお役に立てることがあれば、喜んでお手伝い致しましょう。』滑らかな英語だった。
『感謝します。イッペイ・ヨシザキ大尉。』ハミルトン中尉は、安堵の笑みを浮かべると差し出された一平の手をしっかりと握った。
次の日から、一平はハミルトン中尉たちと、ジャングルを移動し、陸軍の部隊に、投降を呼びかけた。しかし、はかばかしい結果は得られなかった。何日経っても、一人の投降者も現れない。苛立ちが米軍将校の顔に表れている。
『今日も戦果無し。』副官のサンダース上等兵がため息をついた。二十歳になったばかりだそうだが、そばかすの残る顔は年よりも幼く見えた。
『全く、君たち日本兵の頑固さには呆れるよ。そんなに捕虜になるのがいやなのかね。それも戦争も終わっているのに』ハミルトン中尉の顔にも疲労の色が濃い。
『信じてないのです。大日本帝国が降伏するはずがない。敵の謀略だと。そう思っているのでしょう。』一平は説明した。
『我々には解らない。冷静に分析すれば、投降した方が効率的なはずなのに。』
そのときだった。薄暗い木陰から黒い人影が、バラバラと飛び出し、彼らを取り囲んだ。銃口が突きつけられた。
銃を構える暇もない。「待て、撃つな。」一平が叫ぶ。
「日本語?友軍か?」兵士の一人が叫んだ。
「うろたえるな。日系人だ。敵だ。射殺せよ。」隊長らしい男が低い声で命令した。佐官級の将校だな、軍服から瞬時に一平が判断した。
「待ってくれ。我々は銃を構えることもできない。勝敗の帰趨は明らかだ。最後に少しだけ話をさせてくれないか。」一平が静かに話しかけた。その態度に気勢をそがれたのか、兵士達の殺気が消えた。
「私は、吉崎一平海軍特務大尉である。天皇陛下の詔勅を伝えに来た。」その言葉に、兵士達に動揺が走った。一平は続けた。
「大日本帝国は無条件降伏した。戦争は終わったのだ。もう、これ以上戦うのはやめろ。アメリカ軍に投降し、皆、生きて
「貴様、気は確かか。軍人勅諭を忘れ、鬼畜米英の犬に成り下がったか。貴様それでも帝國軍人か!」怒りに震える声で隊長が言った。それに促されるように、銃口が突きつけられる。ひるまずに一平は続けた。
「陛下はおっしゃられたぞ。皆よく帝國のために戦ってくれた。しかし、戦争は終わった。これからは堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍んで、明日の日本のために、何としても生きて国に還れと、国に還って、日本を復興させる手助けをして欲しいと。日本は武装解除した。もう帝国陸軍も聯合艦隊もないのだ。」
「ごまかされるな。こいつは敵の間諜だ。撃て。」
銃口がハミルトン中尉に突きつけられた。一平は中尉をかばうように飛び出した。
「貴様、やはり米軍の犬だな。裏切り者、恥を知れ。」
「撃つなら私を撃て。この人達は殺させない。この人達を殺したら、お前達が生きて帰れなくなるからな。憎いなら私を撃て。私を撃って、そして、投降してくれ。もう、戦うのはやめよう。お前達にも親兄弟はいるだろう。国に還って親父やお袋のために働いてくれ。弟や妹たちが腹を空かして待っているぞ。お前達を待っている者のために、生きて日本に還れ。」
「撃て!」しかし、その号令に答える者はなかった。
最前列にいた兵士が、ふるえながら言葉を発した。「おっかさん・・・」兵士達は次々と膝をついた。米兵達は彼らを武装解除させていく。枯れ木のようになった腕から銃がはずされた。顔色も悪く、ほおがこけ、目だけがぎらぎらと光っていた。こんな体で良くも戦ったものだ。一平の胸は痛んだ。
ハミルトン中尉は、呆然としている陸軍士官に話しかけた。
『私は、アメリカ海兵隊所属、エドワード・ハミルトン中尉。』
『自分は、F島守備隊隊長、小杉重三中佐です。部下達をよろしくお願いします。』一平より若いその陸軍士官は静かに答えた。
小杉中佐が投降したことで、陸軍兵士の投降もスムーズに行われるようになった。小杉中佐はハミルトン中尉や一平に積極的に協力し、展開する小隊の位置や兵士達の潜んでいそうな場所を教えた。作戦の際には、小杉中佐も自ら拡声器をとり、兵士達に投降を呼びかけた。直属の上官からの投降命令である。兵士達は、ハミルトン中尉が拍子抜けするほど容易に投降した。
『あなたのおかげです。コスギ中佐。あなたがいなかったら、あなた方にも我々にも、もっと戦死者がでていたことでしょう。』
中佐は微かに微笑むと、首を振った。
しかし、その陸軍士官の変容を喜ばない者も多かった。陸軍の兵士達はある者は影で、ある者は公然と彼に対し侮蔑的な態度を取った。それに対し、士官は怒りも動揺も見せず水のように淡々と接していた。
「あいつぁ、口先ばっかりだ。」若い陸軍兵士が、五助に話しかけた。
「何が、生きて虜囚の・・・だよ。結局てめえも命が惜しくなったんだろうさ。死んだ連中は良い面の皮さ。」
「よせよ。そのおかげでお前らも助かったんだろ。」五助は後ろめたい気分になる。自分も最初米軍に協力する一平のことを快く思わなかったことを思い出していた。
「ああ、そうだけど。吉崎特務大尉が来てくれなかったら、みんな飢え死にだったなぁ。大尉こそ命の恩人だぜ。俺たちみんなそう思っている。あの大尉も軍人勅諭だ戦陣訓だって言ってたのかい。」
「いや、一度も言わなかったよ。」
「大したもんだ、やっぱり海軍さんは違うね。」
海軍将校だって、ろくでなしはいたさ。五助は言葉を飲み込んだ。
日本軍の投降作戦も九分通り終了したある日、ハミルトン中尉は、F島の捕虜を帰還させる準備が整ったことを一平達に話した。
『ハミルトン中尉、私はもう少しこちらで、残った部下を投降させたいのですが。』珍しく小杉中佐が意見を述べた。
『コスギ中佐、あなたのご厚意は嬉しいが、残っている兵士達は殆どいないと思われます。ですから、これ以上の作戦遂行は、効率的ではないと考えます。あなた方は一刻も早く占領下の日本に戻り、本来の仕事に就くのがベストと思います。』
『解りました。では、明日もう一日だけ、呼びかけさせて下さい。』
次の日、終日一平と小杉中佐は、ジャングルを歩き続けた。一人の投降者もないまま、帰還したとき、日は既に暮れていた。
「もう、お休み下さい。」憔悴しきった中佐をいたわるように一平は声をかけた。
「感謝する。兵士達がどこにいるか確認したいので、しばらく一人で考えさせてはもらえないだろうか。」
一平はうなずき、ハミルトン中尉を説得した。紙と鉛筆を手渡すと、中佐は一平に微かに頷いたようだった。そして個室にはいり地図をじっと見つめていた。程なく、乾いた音が個室に響いた。
部屋に飛び込んだハミルトン中尉は、息絶えた陸軍将校の姿を見つけた。辞世の言葉が、残されていた。中尉はそれを一平に見せた。
何の面目ありて大君に見えん
一平は押し黙ったまま、捕虜達に遺書を見せた。かつて部下だった兵士達は呆然とそれを見つめている。その中に、かつて五助に話しかけた若い兵士も混じっていた。
『ヨシザキ大尉、何と書いてあるんだ。中国文字ばかりでは我々には解らない。』
『陛下に合わす顔がない。』一平はつぶやいた。ハミルトン中尉は、意味が飲み込めないようだった。
『天皇陛下に合わす顔がないと、遺書に書かれたのです。小杉中佐は。』一平は繰り返した。
『エンペラーだと、君たちは、いつも二言目にはエンペラーだ。そして自殺か。軍人だけではない。非戦闘員までもだ。なぜなんだ。ヤザキ大尉。』
『我々は、生きて虜囚の辱めを受けずと教え込まれているのです。軍人だけではありません。民間人も同じです。』
『バカな、我々は捕虜を虐待したことなど一度もない。まして民間人に自殺を強要するなど、以ての外だ。民間人を守ってこその軍隊だろう。』
『我々は、天皇陛下の軍隊なのです。』
その言葉に、あっけにとられたようにハミルトン中尉は沈黙した。しばらくして、独り言のようにつぶやいた。
『エンペラーの軍隊・・・エンペラーの軍隊。そうか・・帝國軍では無い。エンペラー個人のための軍隊か。そうか。そうなのか。』握りしめた拳が震えている。
『だから、サイパンで民間人を守らなかったわけだ。バンザイ突撃で守備隊が全滅した後、どんな地獄が展開したのか。君は知っているのか。ヨシザキ大尉。』いつもの冷静で穏やかな中尉とは別人のようだった。
『マッピ岬に追いつめられた日本人は、我々の投降の呼びかけにも応じず、目の前で海に飛び込んで死んでいったよ。女子供もだ。我々はどうしてやることもできなかった。泣き叫ぶ子供達を実の親が情け容赦なく投げ込んだんだ。子供を投げ込もうとした父親を、私は思わず射殺してしまった。民間人だったのに・・・父親の遺体に取りすがって泣いていた子供の姿が俺の目に焼き付いて離れない。こんな惨い戦いがあるものか。それを強制したのはエンペラーだろう。そんな人間に・・なぜだ。イッペイ、なぜなんだ。なぜ君たちはそこまで服従するんだ。』
最後の言葉は、一平の心を動かした。激しい怒りが彼を包んだ。彼の感情は空気を通し、そこにいた全ての人々に突き刺さった。一平は、感情を抑えるように、静かに息をするとハミルトン中尉を見据えた。目の中に炎が見える。
『服従ではない。忠誠心だ。』静かな声だった。『ハミルトン中尉、一度でも、あなたは飢えたことがあるのか。土間にわらを敷き、牛や馬と同じように眠ったことがあるか。まともな服一つ無く、汚れた着物を着て裸足で歩き回ったことがあるのか。一番鶏が鳴く前から仕事にでて、夜は星が輝くまで働いたことがあるか。学校にもろくに行けず、読み書きもできず。世間一般からは貧乏人の小倅と軽蔑されたことがあるというのか。』
思いがけない言葉に、ハミルトン中尉は呆然と一平を見つめた。
『いや、あるはずがない、あなたは、白人だ。アングロサクソンなんだろう。最初から日の当たる場所にいる人間だ。そんなあなたに、わしらの気持ちがわかるはずがない。そんな、わしらに、綺麗な着物を着せてくれて、上手いものを食わしてくれたのが軍隊だった。それだけじゃない。読み書きもろくにできないわしらに一人前の教育をつけてくれたのも軍隊だ。軍隊だけが人間として扱ってくれた。軍隊だけがわしらにとって、日の当たる場所だった。貧乏のどん底にあるわしらにとって、軍隊にはいることだけが希望だった。軍隊で手柄を立てれば、故郷に錦が飾れるんだ。その軍隊を指揮されているのが、陛下であられたんだ。陛下のおかげで人間らしく生きられた。そうとも、恩義に感じているとも、わしらを人間扱いしてくれた、そのお方に対し、恩義に感じてどこが悪い。どこが悪いと言うんだ。』
その言葉は、そこにいた兵士達の心に染み通った。若い日本兵達のほおに涙が光っている。彼らだけではない、背の高い黒人兵も浅黒い肌のプエルトリコ系の兵士もまた目を潤ませていた。皆、社会の底辺にあえぐ人々の子弟であった。ハミルトン中尉はつぶやいた。
『ヨシザキ大尉、間違っている。軍隊は日の当たる場所なんかではない。人殺しをする組織なんだ。』
一平は深々と頭を下げた。
中尉は小杉中佐の埋葬を許可した。中尉の厚意により、弔砲を撃つことも許された。陸軍の兵士達が敬礼する中、小杉中佐の遺体はしめやかに荼毘に付された。一平は遺骨と遺品を中佐の部下に託した。
五助達はサンダース上等兵と親しくなったらしかった。言葉は通じなくとも、身振り手振りで何か楽しげに話している。髪や肌の色は違っても通じ合えたはずだ。戦う前にもっと何か方法があったはずだ。違う何かが・・・一平は思う。しかし全ては終わったのだ。
「あの米兵と何を話しているんだ。」ある夜、一平が訪ねた。
「野球の話であります。職業野球の。」なんとも長閑な話だ。一平は笑った。久しぶりの笑顔だった。
「サンダース上等兵は、私がベーブ・ルースやルー・ゲーリックを知っていることを話しますと大変喜び、『スクールボーイ・サワムラ・ヴェリ・ナイス』と、それで、私が『サワムラ、ダイド』と申しますと、悲しそうな顔して、ワタシ、サワムラピッチング、ミタイ、オモイマシタと言ったんです。」
「そうか。」二人はため息をつくと星空を見上げた。
ついに、船が到着した。日本に還れる。二度と故郷の土を踏むことはないと思っていた兵士達にとって、その喜びは筆舌に尽くしがたい。出航する日が間近に迫ったある日、一平は坂口兵曹長の遺骨を掘り出し、骨の一つ一つを洗い清めた。五助達も手伝った。
「一緒に日本に帰ろうな。」一平は物言わぬ部下に声をかけた。頭蓋骨に水を注ぐと眼窩からあふれ出し、あたかも泣いているように見えた。
「うれし泣きしてるみたいだ。兵曹長が。」誰かが言った。遺骨を荼毘に付すと、一平は、兵曹長と同郷の兵士にそれを託し、残った灰を布袋に集めた。
「必ず、会いに行くから。」一平は、遺骨箱にそっと手を置いた。
いよいよ、出航の日が来た。皆足下も軽く乗船していった。一平は列から離れると、ハミルトン中尉に別れの挨拶に戻った。
『お世話になりました。中尉。』
『あなたは立派な軍人でした。ヨシザキ大尉、でも、これからは、イッペイと呼びたい。友人として。また、いつか会いましょう。イッペイ。』
『有り難う。ハミルトン中尉。』
『テッドでいい。』ハミルトン中尉は笑った。
『また会いましょう。テッド。必ず。』『お元気で、イッペイ。』二人はしっかりと抱き合った。
出航の汽笛とともに、船は滑るように桟橋を離れた。F島が次第に遠ざかり、やがて視界から消えていった。海と空だけの青い世界を船は進んでいく。M海の周辺に船がさしかかったとき、吉崎特務大尉は、厳島の乗員達を甲板に整列させ、坂口兵曹長の遺灰を海にまいた。人々が敬礼する中、遺灰は、白いもやのように海面を漂いながら、すぐに波間に消えていった。長く厳島と共にあった準士官に対し、あるいはそれが、一番ふさわしい弔い方であったのかも知れない。
海の色が変わってきた。行く手に懐かしい日本の姿が現れるのは、もう間近だ。その姿を少しでも早く見たい。兵士達は甲板にたっている。
「還ってきたんですね。吉崎特務大尉。夢ではなく。」「そうだ。」
「中村一等水兵。あの遺品は持ってきたか。」
「砂知川一等水兵の手帳でありますか。はい、こちらに。」五助は胸のポケットを押さえた。
「東京は丸焼けだ。これでは、砂知川さんのご家族がどこにいるのか・・・」五助が当惑したようにつぶやいた。
「菩提寺が住所の近くにあるはずだ。そこで聞けば、何か手がかりがあるだろう。」
二人の姿をぼろを着た子供が一瞥すると、そそくさと去っていった。その子に声をかけるものは誰もいなかった。出会う大人達も痩せて顔色が悪く、自分が生きるのに精一杯のようであった。戦災孤児か。一平は思う。負けるというのはこういう事か。我々は国のために戦った。その結果がこれなのか。二人は、押し黙ったまま通りを歩いた。
「パンすけめ!」一平が静止する間もなく、五助がつぶやいた。
女は、目をつり上げると、つばを二人に吐きかけた。
「売女。」五助は激怒している。
「よさんか。」一平がたしなめる。
五助の怒りは収まらない。海兵団に入隊してからの日々が頭をよぎる。なんのために戦ったのか。なんのために、あの戦地の苦労は。こんな女達のために俺達は戦ったのか。
「特務大尉。しかし・・」
「止めろといっているんだ。」
米兵が彼女に声をかけた。女は何事もなかったように、愛想良く米兵と歩いていく。角を曲がる刹那、女は一平と目があった。
あんた達のご立派な大義名分とやらのために、私はこうなったんだ。女の山猫のような目が、そういっている。
こみ上げる怒りを抑えきれず、五助は言葉をはき出す。「くろんぼの子供なんか孕んだら、どうする気だよ。」
「よせ。」それから先のことは、一平は考えたくもなかった。
二時間ほどもあるいた頃だろうか。空襲に会わずにすんだらしい一角に二人はさしかかった。あの不快な匂いも消え、落ち着いた町並みに二人の心は和んだ。とある家の四方に縄が張り巡らされ、立ち入り禁止の札が立っている。風に乗って、つんとする石炭酸の匂いが漂ってきた。
「疫病か。」荒廃した街に伝染病が蔓延するのは、至極当然の成り行きだった。
「コロリでしょうか?」不安げに五助が聞いた。
「復員兵さん、なんのご用だね?」もんぺにかっぽう着姿の中年女が声をかけた。
「K寺という寺を探しているんだが、この近所ではないのかね?」一平は尋ねた。
そのおかみに、K寺までの道順を聞くと、一平は礼を言った。
「コロリですかい?チブスですかい?」その家を指さしながら五助が聞いた。
「いや、あんた、狂犬病ですよ。おっそろしいこった。」
「狂犬病?」二人は顔を見合わせた。大震災の頃、猖獗を極めた死の病が蘇ってきたのだろうか。
「いや、もう、聞いて下さいよ。あの恐ろしかったこと。兵隊に取られたお父ちゃんが無事に帰ってきたって、そりゃあ喜んだんですよ。家も焼かれなかったし良かったってね。で、末の坊やが犬っころを拾ってきたんですわ。疎開から戻ったお兄ちゃん達とそれはもうかわいがってたんですよ。ところがね。その犬が狂犬病を持ってたんですよ。それで、家族みんなに噛みついて、一家六人狂い死にですわ。小ちゃい子から順々に・・・」黙っている二人に、女は話し続けた。
「最後に、お父ちゃんがなっちまったんですが、うなって、わしらに食いつこうとするんですよ。食いつかれりゃわしらだって狂い死にさ。予防注射なんかありゃしない。で、わしら、なんまいだぶ、堪忍してくれって、お父ちゃんに水をぶっかけたんです。そしたら、ぎゃーーーんって、犬殺しに首締められるような声出して、びくびくって震えて、そのままおっ死んじまいました。いや、もう、その時のおっかなかった事ぉ・・・」
まるで、夕食の献立を話すように、ぺらぺらと女はしゃべっている。その中身もひどく軽いように一平には聞こえた。しばらく話をさせると、彼は女に再び礼を言うと。その場を後にした。
「特務大尉。私は頭がおかしくなったのでしょうか?・・・何も感じないのです。あんな話を聞いても何も。」
「お前だけではない。私もだ。」一平は答えた。
自分たちは、死を多く見過ぎた。精神が摩耗したのだ。自分たちだけではない、東京の人間は、いや日本人は全て、死に慣らされてしまった。あのおかみも、若い娼婦も、ヤミ市の連中も、大切な何かをすり減らしてしまったに違いない。
程なく、砂知川の菩提寺と聞くK寺についた。墓地が焼夷弾から寺を守ったのか、境内には殆ど被害がなかった。砂知川の遺品をという話を伝えると、すぐに住職が現れた。
「良一君の戦死の報告は届いていたのですが、有り難うございます。遺品を。」七〇近い小柄な住職は二人に頭を下げた。
「ご遺族にお渡ししたいのですが、どちらにいらっしゃるのですか。」一平の問に、住職は顔を曇らせながら、答えた。
「皆、お亡くなりになりました。三月十日の大空襲で・・・」
砂知川の両親と妹は防空壕に避難した。しかし、焼夷弾の発する炎と熱のため、他の避難者共々、中で蒸し焼きになったのだった。防空壕の鉄の扉が人間からしみ出した油でべっとりとぬれていた。その油が外の地面に溜まっていた。
「惨い死に方です。」住職がぽつりと言った。
東京を焼け野原にした焼夷弾の炎がどのようなものだったのか、それは、経験した者でなければ解らないことだろう。三人は本堂の畳に目を落としている。
「この手帳は、ご住職が預かって頂けませんか。砂津川さんもきっと、喜ぶと思います。」しばらくして、五助が提案した。
「中身を拝見してよろしいですか。」そう尋ねると、住職は砂知川の手帳を読み始めた。読み進むうちに、住職の口から嗚咽が漏れた。何が書かれていたのか、一平達は知るよしもなかった。だが、砂知川の、手紙では決して記すことのできなかった、心の叫びが書かれていたことは間違いないだろう。作曲家を志し、その志半ばで戦場に散った若者の。
一平と五助は、砂知川家の墓に詣でた。弔う人のいなくなった墓は、荒れはてていた。二人は、墓を整え、墓石を清めた。五助は湯飲み茶碗を拾ってくると、川の水で見苦しくないようになるまで洗い清めた。二人は土手に咲いたタンポポやレンゲの花を摘むと、湯飲み茶碗にさし、砂知川の墓に手向けた。
「勘弁して下さいよ。砂知川さん。」手を合わせながら五助が話しかけた。「こんな花しか供えてやれなくて、」
しばらく祈った後、五助は口笛を吹き始めた。それはかつて、戦艦・厳島の食堂で砂知川が弾いた曲だった。不作法をとがめようと思った一平だったが、何も言わなかった。五助なりの、砂知川への精一杯の手向けなのだろう。思えば、あの日、砂知川の曲を聴いた兵士のうち一体何人が、故国の土を踏めたのだろうか。日が暮れ始めた。五助はまだ吹いている。口笛の音が夕暮れの墓地に広がっていった。
一平の心は、空虚だった。確かに、国には還れた。二度と戻れないと思っていた日本に。しかし、自分が変わってしまったように、国も人々も皆変わってしまった。自分の信じていたもの、守りたいと思ったものも、もう、何一つも残っていない。一体これから、どう生きていけば良いのだろう。
「お前、これからどうするつもりだ。」五助に尋ねた。
「え?どうするって、村に帰るんでしょう。漁師に戻るんです。特務大尉もそうでしょう。」五助はなぜそんなことを聞くんだとでも言うように不思議そうに答えた。
「海に還るか。」
思いがけない言葉だった。そうだ。それが良いのかも知れない。
「村のみんなはどうしているでしょうね。」五助はそういうと、遠い思い出をたどった。
次の日、K寺を後にすると、二人は東京駅に向かった。焼け残ったホームは、買い出しの人々や復員兵であふれていた。汽車に乗ろうにも、手すりや窓枠、果ては客車の屋根にまで人が鈴なりになっている。何時間も待った後、ようやく、二人はドアの鉄製の手すりのはしにつま先をかけることができた。一平はベルトの先をドアの手すりに通し、自らの体を固定すると、五助にも同じ事をするよう促した。
「この様子じゃ、何時間かかるかわからんからな。S市につくまで。手が使えるようにしておいた方が無難だ。」彼は部下に忠告した。
汽笛を響かすと、ゆっくりと車輪が回った。振動が一平達の体に伝わってくる。手すりにや窓枠にしがみついた者達、屋根にのっている者達は、振り落とされないように体を汽車にぴったりとつけている。汽車はホームを離れた。焼け跡を次第に速度を上げながら進んでいく。線路沿いにたっている電信柱が近づくたびに、手すりにしがみついた人々は、まるで斜め懸垂でもするように体を引き寄せ、電信柱をやり過ごした。いつまでもそんなことをし続けられるわけがない。一平の不安は的中した。一人の復員兵が懸垂動作ができず電柱に激突した。彼はすぐに起きあがると、首を左右に振っている。その姿に、しがみついていた人々は笑った。安堵の笑いだった。
「大変だったなあ。今度は落っこちないようにしなされよ。」同じように手すりにしがみついた男が叫んだ。五助も続けた。
「今度は、ほれ、俺みたいに、ズボンのベルト、手すりに通して、ほら、こんな風に。」
それを聞いた男達が、慌てて一平や五助の真似をした。これでもう、振り落とされることは無いだろう。復員兵は五助に頭を下げている。最後尾にいた男が、その兵士に何か投げながら叫んだ。
「俺のにぎりめしさ、やるから。それで、精をつけなされや。気ぃつけていきなされ。」
食糧の不足した中で、それは最大級の思いやりだったろう。
復員兵はにぎりめしの入った包みを胸に抱きながら、大きく手を振った。しがみついている人々もそれに答えた。汽車はさらに速度を上げていく。
「俺たちも落ったねぇようにしねえと。今度こそおだぶつだぞ。」誰かが叫んでいる。
「違えねえや。だどもあんまり騒がねぇほうがええぞ。腹ぁ減るからな。」
その言葉に人々は笑った。朗らかな笑いだった。
「五助。」一平は初めて、五助を名前で呼んだ。
「なんでありますか?特務大尉。」
「もう、特務大尉と呼ぶのはやめにしてくれないか。もう、海軍はなくなってしまったんだ。昔のように呼んでほしい。」
「よろしいのですか?特務大尉。いえ、一平さん。」
「一平でいいよ。」五助は照れたように、頭をかいた。
人々の思いを乗せながら、春まだ浅い大気の中を、汽車は東京から離れていく。一平は去っていく街の残骸を見つめている。一平が何を考えているのかは、五助には読みとることができなかった。やがて日が暮れ、すぐそばにいる一平の顔も夕闇にかすんでいった。
東京オリンピックを翌年に控え、東京は高度経済成長のまっただ中にあった。集団就職列車で、田舎から若者達が首都に向かい、東京の発展を手助けした。ここ、Y村では、相変わらず昔ながらの暮らしが続いていたが、高度経済成長の槌音は、この村にも密かに、しかし確実に響いてきたのだった。
村に戻った一平は、その後風のように暮らした。降るようにあった縁談も全て断り、一時は捕鯨船に乗ったこともあったが、五助とともに小舟で漁をすることが多かった。そんな一平を村人は好奇の目で見つめた。しかし、一平は一切意に介さず、静かに日々を送っていった。
「この年になって、子供を授かるとはなぁ。」そういうのが口癖になっていた。
五助は、そんな一平の変化が嬉しかった。たとえ、その子が何者であれ、一平の生活にさした一筋の光のような気がしてならない。
夏の盛りのある日、二人はいつものように舟を出した。波の穏やかな沖に出ると、その子供はすぐに海に入りたがった。一平が抱き上げて海に入れると、子供はすいすいと泳ぎ始めた。そして、高い澄んだ声で笑った。
「こんな小さい頃から、平気で泳げるなんて、一流の漁師になるなぁ。大したもんだ。」一平は目を細めている。
「一平さんが、こんな親ばかになるなって思わなかったなぁ。」五助は笑った。「孫は可愛いって言うもんな。」
「ああ、いつまでこの子と一緒にいられるかわからんが、できるだけのことはしてやりたいと思っとる。」一平が真顔で言う。
「縁起でもねえこと言うもんじゃねぇよ。」
「じっちゃん。」子供が一平を呼んでいる。
浜に戻ると、漁師仲間の男が飛んできた。いつもと違う様子に、二人は顔を見合わせた。
「一平さん、大変だ。進駐軍があんたを捕まえに来たぞ。」男は息を切らしている。
ただならぬ様子に子供は一平にしがみついた。子供をあやしながら一平は尋ねた。
「進駐軍とは、また、古いことを言いよる。一体何があったのか、順序立てて話さんかい。」
「一平さんは捕まるようなこたぁ、何にもやっとらんよ。」五助も不快そうに言った。
男の話では、一平達が漁に出ている間に、米軍将校ののったジープがやってきた。その将校は、村人達にイッペイ・ヨシザキはどこだと尋ねたという。全く心当たりのない一平は当惑するばかりだった。
「ありゃ、MPだわさ。一平さんを巣鴨プリズンにぶち込む気じゃなかろか。」
「んなもんは、とうの昔に無くなっとるわい。」五助は呆れている。
男に促されて、二人は村に戻った。土手の道に確かに、米軍のジープが止まっている。村人達の人垣の中に、群を抜いて背の高い人影が見えた。姿勢の良さから、明らかに軍人であることがよくわかる。
「何者だろう。あのアメリカさん。」「それを確かめるんじゃろう。今から。」二人は緊張した面持ちで歩を進めた。
1m80以上はあるその将校は、たばこを燻らせながら立っていた。短くかった金髪が夏の日差しに輝いている。鋭い青い瞳、大きな鷲鼻、割れた顎、三〇代後半のいかにも歴戦の勇士といった堂々たる風貌である。その将校の息子だろうか、一五・六才ぐらいの少年がジープから降りてきた。
「ジョン・ウェインみたいだ。」ある子供がつぶやいている。
『初めまして、私がイッペイ・ヨシザキです。私をお捜しだったとか。』一平は切り出した。初めて聞く一平の英語に、村人達はどよめいた。
『Mr.ヨシザキ、お久しぶりです。お忘れですか。ロバート・サンダース中佐です。F島ではお世話になりました。』そういうと、彼はにっこりと笑った。その笑顔の中に、一八年前の少年兵が蘇った。
「あーっ、あんた、スクールボーイ・サワムラ、サンダース上等兵か。」五助は驚いている。
「オゥ、ゴスケ、オヒサシブリ。」五助と米軍将校は握手した。
「相変わらず、へったくそな日本語だぁ。」五助は遠慮無く言った。「でも、立派になって。」
「アリガトウ、ゴスケ。シゲオ・ナガシマ、最高ノ、バッター、ダ。メジャーリーグデ、プレイシテホシイネ。」サンダース上等兵の野球好きは相変わらずのようだった。
「だめだ、だめだ。長嶋はわしらの選手なんだ。」五助はむきになって、言い返すと、笑い出した。米軍将校も笑っている。
『サンダース中佐、なぜあなたが、私などに。』しばらくして、一平が口を開いた。
『Mr.ヨシザキ、私がボブおじさんに頼んだんです。あなたに会いたいと。』
ジープから降りた少年が話しかけた。整った顔立ちのその少年も、懐かしい人の面影を写していた。
『ハミルトン中尉、あなたは、ハミルトン中尉の。』一平の声も震えている。
『息子です。初めまして、Mr.イッペイ・ヨシザキ、エドワード・ハミルトンJrです。』
『何と懐かしい。中尉のご恩は忘れられません。今どちらにいらっしゃるのですか?ハミルトン中尉、いや、テッドさんは?』
『父は死にました。朝鮮戦争で、私が五才の時でした。』
思いがけない事実に、一平は言葉を失った。
一平に少年は説明した。早くに父親を亡くした彼には、中尉との想い出は殆ど無かった。わずかに、かつての部下や副官だったサンダース中佐から聞く話と、中尉が士官学校時代から書き続けた日記が、少年と中尉をつなぐものだった。その日記の中に一平のことが書かれていたのだという。父親の面影を求めて、この少年ははるばる日本まで来たのだった。
『父はあなたのことを、勇気ある軍人だと書いていました。』
『ハミルトン中尉こそ、立派な方でした。軍人としても、人間としても・・・敵国の兵隊を差別することなく、人道的に扱ってくれました。お国のことを、そして、自由と民主主義を本当に愛してらした。』
『仲間に軽蔑されることを恐れず、父達に協力し、多くの兵士を救われたそうじゃないですか。真の勇気がないとできないことだと思います。イッペイ・ヨシザキ。』
『あれは、小杉中佐が・・』忘れようとした思い出が蘇る。『私は罪を犯しました。お父さんの言われるような立派な人間ではありません。私は・・・』
『罪、何の罪があったというのですか?父だってサイパンで民間人を射殺してしまった。それをずいぶん悩んでいたそうです。あの時はやむを得なかったのでは、Mr.ヨシザキ。』
違う。自分のしたことは・・・違うんだ。ハミルトン中尉のしたこととは違う・・・
『Mr.ヨシザキ?』なおも尋ねようとする少年をサンダース中佐の手が静止した。幾度も戦場をくぐり抜けた男の手だった。
『ありがとうございました。Mr.イッペイ・ヨシザキ。』少年は一平に礼を述べた。
子供がぐずりだした。サンダース中佐は、その子に“高い高い”をしている。子供はすぐに機嫌を直し、笑い声をあげていた。
『この後、どうされるのです?』一平は少年に尋ねている。
『ボブおじさんの休暇が終わり次第、私は、陸軍幼年学校に帰ります。』父親の跡を継いでこの少年も軍人になるつもりなのか。一平は複雑な気持ちになった。少年は続けた。
『ケネディ大統領は、こう演説されました。「国が何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問おうではないか。」と、私も国のために精一杯できる事をしたいと思います。』まっすぐな瞳でエドワード・ハミルトンJrは、一平に答えた。
『貴重なお時間を、感謝します。Mr.ヨシザキ。お礼がしたいのです。何か私でできることがあれば。』サンダース中佐が言った。一平は、ためらい勝ちに頼んだ。
『もし、差し支えなければ、私の部下の消息を調べて頂けないだろうか。金田正といいます。朝鮮名はキム・ジョンス、終戦直後、韓国に帰ったと聞きました。彼が今どうしているか、いや、生きているのかだけでも良いのです。お願いします。』彼は、金田一等水兵の生年月日などを手早く書き留めると、サンダース中佐に手渡した。
『解りました。最善を尽くしましょう。』
子供がまた、サンダース中佐の足にしがみついた。一平がとがめると、サンダース中佐は笑って、子供を抱き上げた。
『おじちゃん、高い高い。』子供が片言で言うと、背の高い将校は、ひょいと肩車した。
『お前は良い子だ。おじいさん似で、英語が上手いな。』それを聞くと、子供は澄んだ声で笑った。
『あなたのご家族によろしく。』
『私は、独り身です。』
意外な言葉に一平は面食らった。『なぜ?』
『私は不器用な男です。心おきなく任務を果たすためです。』
『寂しくはないのですか?』
『Jrがいます。それに、部隊の兵士達は私の大切な家族です。』
『そうですか』一平はそのたたき上げの士官を見つめた。
ジープにエンジンが掛かり、少年が中佐を呼んでいる。
『お別れです。Mr.ヨシザキ。私は、カデナ空軍基地に帰ります。』
『サンダース中佐、武運長久を祈ります。』一平はさっと海軍式敬礼をした。
そのとき、一八年の歳月は消えた。
『感謝します。ヨシザキ大尉。』米軍将校もまた、敬礼を返した。
「そうかい。あの中尉さん、亡くなられたのか。」櫓を漕ぎながら、五助が話しかけている。
「朝鮮戦争で、解らんもんだなぁ。人の運命なんて。」一平はため息をついた。
「息子さん、中尉さんに生き写しだったなぁ。なんて言ってたんだい。」
「陸軍士官になるそうだ、中尉の後を継いで。お国のためにと言っていたよ。」
五助は黙っている。
「サンダース上等兵が、今じゃ中佐様かぁ。大出世だなぁ。」しばらくして五助が、口を開いた。
「アメリカさんは、士官学校出だろうが、たたき上げだろうが差別をせんそうだ。才能ある者なら誰でも昇進できる。それがあの国の軍隊の強さなんだろうよ。」
「そんな国と戦争してたのかい。」
「だけど、何で、所帯を持たなかったんだい?引く手あまただろうによ。」
「後顧の憂い無く、任務を果たしたいそうだ。」
「お国のために・・・後顧の憂い無く・・・か。」五助はため息をついた。
「今じゃ、死語になっちまったな。」一平は遠くを見つめている。
「金田一等水兵の消息を頼んだよ。」一平は懐かしい人の名を五助に告げた。
「金田さんかぁ、元気にしとるだろうか?」
「生きていてくれればいいが」
「生きてるよ。あのM沖海戦の地獄からだって、生還したんじゃないか。あの人が死ぬはずが無い。生きて、きっと、また、俺たちのこと怒っているさ。」
「そうだな、俺たちの国を踏みつけにして、日本は息を吹き返したって、言っとるだろうな。」
二人の心に、遠い昔が蘇った。
秋も深まった頃、一通の海外便が一平の元に届いた。Kadena Air Baseという文字から、サンダース中佐からのものとすぐに解った。
分厚いゼロックスの束とともに、中佐からの短い手紙があった。
親愛なる イッペイ・ヨシザキ
あなたの部下の消息は残念ながらわかりませんでした。
ここに、彼と発音の似た韓国軍の兵士達の朝鮮戦争の戦死報告の写しをお送りします。
この中に、あなたの部下が入っていないことを心から祈ります。
あなたの友 ロバート・サンダース
軍事機密に抵触するかも知れない中、精一杯の彼の厚意であった。一平は、その一枚一枚に、目を通し始めた。やがて、ゼロックスをめくっていった一平の指先が止まった。震える指先からゼロックスの束は滑り落ちると、畳の上に広がった。一平はうなだれたまま、いつまでも畳を見つめていた。
庭先で遊んでいた子供が、濡れ縁から声をかけた。初老の男は、子供を見つめると、畳に広がった紙を集め始めた。そして、茶箪笥から、便箋と万年筆を取り出した。子供はその様子を見つめていたが、やがて、庭先でトンボを追いかけ始めた。秋の日差しを受けて子供の髪の毛が、金茶色に透けていた。秋晴れの空に
男が濡れ縁から子供を呼んだ。子供はすぐに飛んできた。男は孫らしき子供の手を引くと、郵便局までの一本道を歩いていった。
また、鳶が鳴き声を上げた。鳥は、ゆっくりと旋回しながら高く高く昇っていく。その遙か上空を、南に向かう米軍輸送機の編隊が白い航跡を描いていった。
11月22日、J.F.ケネディは凶弾に倒れた。
副大統領L.B.ジョンソンは、直ちに大統領に就任し、ベトナムへの介入政策を遂行した。翌1964年8月5日、トンキン湾での米駆逐艦への魚雷攻撃の報復として、北ベトナム軍に対する大規模な軍事行動がとられた。7日、上下両院で、事実上の宣戦布告となるトンキン湾決議が承認された。
それが、その後十年余の長きにわたる「ベトナム戦争」の始まりだった。
完
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太平洋戦争関係の二次創作&オリジナル小説を書いています。
また、中世~近現代のロマンス小説も書きます。