今日の稼ぎを懐に入れて、ヘスペリアは、帰り道を急いでいる。夕刻まで働いたため、いつもよりも遅くミネアを出ることになってしまった。彼女の小屋がミネアの郊外にあるため、帰り道は山間の隘路(あいろ)を通らねばならない。いかに腕に覚えがあるとはいえ、この道をしかも日が落ちて通るのは気が重いことだった。もう少し早くミネアを出ていれば、ヘスペリアの心に小さな後悔が芽生えていた。峠の手前にひときわ大きな岩がある。ここをすぎれば峠は間近だ。あとは、見通しもずっと良くなる。
「お前がヘスペリアか。」
不意に岩が声をかけた。岩が話したということだけでなく、その低く威圧的な、あたかも地の底から聞こえるような声に、ヘスペリアはぞっとした。
「なぜ答えぬ。」岩がゆっくりと動いた。
男が一人立っている。背の高いヘスペリアよりも、さらに頭一つ分以上高い、たくましい体の男だった。しかし、この闇の中では、表情はほとんど分からない。男?本当に男なのだろうか。男ではなく冥王の使いでは。そう思わせる異様な気配が漂ってくる。
「口がきけんのか。小娘。」嘲るような声だ。ヘスペリアはかっとなった。
「人に尋ねる前に、自分から名乗ったらどうなのさ。」良かった。声が出る。死に神などであろうはずがない。
「呆れた跳ねっ返りだな。身の程知らずめが。」低い声が続けた。
「俺の手下をずいぶんかわいがってくれたそうだな。」
バザールのごろつきの頭目に違いない。そう思うとヘスペリアの心に余裕が生まれた。
「手下の尻ぬぐいにお出ましか。あんたも物好きだね。」
「言葉に気をつけるんだな。後悔するぞ。」
「後悔するかどうか、試してみたらどう。」ヘスペリアは剣を抜いた。
「小娘。」男の影が揺らいだ。
隘路に剣の音が響き渡る。彼女は男の隙をついて、激しく斬り込んだ。
自分の真情がこの速さにあることを、ヘスペリアはよく知っていた。誰よりも早く剣を扱うこと、それが、欠点である軽い太刀筋を補ってくれるはずだった。しかし、今日はどうしたことか、体が鉛のように重かった。働き過ぎだ。そういっていたデキウスの言葉が蘇ってくる。せめて昼寝の時間に休んでいれば、彼女は悔やんだ。いや、後悔している場合ではない。自分が疲れていることを気づかれる前に、この男の隙を捉えなければ。そうだ、少しでも早く。
今日はどうかしている。いつもなら、剣を振るっている間は何も考えずに動けるはずなのに、何故こうも余分な考えがわいてくるのだろう。彼女は雑念を払おうとした。その時だった。
「お前の負けだ。」彼女の心を見透かすように男があざ笑った。
「何?」「剣を納めろ。」
「負けかどうかまだ決まったわけじゃないわ。」「その息づかいで、どう戦うつもりだ。」
彼女は自分が肩で息をしていることに気づかされた。
「遊びは終わりだ。」
男が襲いかかった。
男の剣は鋭く、そして重かった。一太刀でヘスペリアは剣をはじき飛ばされた。男はそのままとどめも刺さず立ちつくしている。まだ勝機はある。しかし、手がしびれて、彼女は剣を拾うことさえもできなかった。完敗だった。
「好きなだけ命乞いをするがいい。」冷徹な声が聞こえる。
「命乞いをしたら、助けてくれるのか。」
無論、答えはない。
「ならば、するだけ無駄だ。好きにするがいい。」ヘスペリアは投げやりにいった。
「好きにさせてもらうとするか。」
男の気配が背後に迫る。首をはねる気なのだろう。彼女は覚悟を決めた。だが、男は彼女を背後から抱きすくめた。今までとは全く別の恐怖が襲いかかる。彼女は必死に抵抗した。しかし男は抵抗する彼女の腕を左腕一本で易々と押さえ込み、柔らかい首筋に唇を這わせた。男の熱く堅い胸板が彼女の背中に密着している。
「離せ。誰か……」
首筋に唇が触れるたびに、おぞましさに全身が総毛立ち膝頭が震えた。喉の奥まで砂が入ったようなざらついた感覚に襲われる。
「好きにしろといったのはお前だ。今更何を。」
耳元でからかうようにささやく声がする。その声から逃れようとあらん限りの力でもがいた。だが、男の腕に押さえ込まれて身動きすらできない。低い笑い声が聞こえ、唇が彼女の耳をついばんだ。
手込めにされる。
考えもつかなかったことだった。まさかこのような目に遭わされようとは。ヘスペリアは自分の判断の甘さに呆然としている。男の手が首に掛かった。思わず身を固くする。彼女の首筋の脈打つ部分をまるでなぶるかのように男の手がなで回した。やがて、節くれ立った指先に髪の毛をつかまれ、無理矢理、顔を男の方に向かせられた。相手の輪郭だけがかすかな光に浮かび上がっている。そして、絡め取るような視線を彼女は感じた。
「怖いのか。美しい戦利品よ。」嘲るような声だ。
言い返そうとするヘスペリアの唇を男がふさいだ。
息が詰まるような荒々しい口づけだった。苦しさに耐えかねて唇を開こうと足掻いた。少し開いた唇に男の舌が容赦なく入り込んでくる。為す術もなく舌を絡ませられ強く唇を吸われると、全身の力が抜けていった。まるで、精気が吸い取られていくようだ。この男はやはり死の使いなのだ。今されているのは死の口づけ。命がまさに飲み干されようとしている。惑乱の中、ヘスペリアはそう思った。恐怖と一種異様な感覚の中、いつしか彼女は、体を反り返らせ、男の唇を受け入れていた。星一つ無い闇の中、死の使いに誘(いざな)われ、彼女は深い黄泉の淵へ墜ちていった。
遠くで彼女の名を呼ぶ声がする。ステュクスの渡し守の声だろうか。彼女は目を開けた。
「気がついたか。」
死の使いの腕に抱きしめられたままだった。いつ唇が離れたのか。それさえも覚えていない。精気を飲み干され、その腕をふりほどく力も、その気力も、彼女には残されてはいなかった。屈辱のあまり小刻みに彼女の体が震えた。
低い笑いとともに、腕が彼女を解放した。膝頭が激しく震え、足に力が入らない。彼女は岩にもたれかかり、かろうじて立っていた。
「今宵はこれまでとしよう。」
ヘスペリアは言葉が出ない。
「お前を抱くときが楽しみだ。楽しみは後にとっておくとしようか。」追い打ちがかけられた。
「だれがあんたなんかに。」思わず叫んだ。しかし、しゃがれ声にしかならなかった。
「やっと声が出たな。」
「死んだって、あんたのものになんかなるもんか。」
「そうか。」含み笑いをしながら男は続けた。「いや、お前は俺のものになる。それも、自分のほうから。」
「何っ?」
いつの間にか黒い馬が男のそばに来ている。彼は身を翻すと馬にまたがった。
「忘れるな。お前は俺のものだ。必ず、お前は体を投げ出すだろう。この俺の前に。それも近いうちにだ。」
闇の中に、男の哄笑が響く。
馬に鞭をくれると、死の使いは立ち去った。
男が去ってからも、ヘスペリアはその場を動くことができなかった。男の言葉一つ一つが、金槌でたたかれたように頭の中で反響する。初めて味わった、屈辱と恐怖、それに彼女は打ちのめされていた。